快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  本能寺の変 毛利氏もかなり早く知っていた可能性

2017-11-24 12:21:36 | 地震 津波
 本能寺の変が有ったのは6月2日の朝。
 その一報が秀吉に届いたのが6月3日の夜から6月4日の朝にかけてと言うのが通説のようですが、これが異常に早いとする考え方も有るようです。
 早馬ならば不可能ではないのかも知れませんが、以前の記事に書いた通り、6月1日は新月で真っ暗ですから夜間は松明を掲げて速度を遅くするしか有りません。
 更に本能寺の変で有る程度の情報がわかるのはおそらく6月2日の昼頃と考えた場合、当日日中の6時間で仮に平均時速20km/hとした場合で120km。
 夜間は10km/hとして90km。
 翌日である6月3日に全道のりと言われる240kmのうちの残された距離30kmを移動するのは確かに無理ではないかも知れないと思われます。
 ただ毛利氏が6月4日に変の情報を得たと言うのは、途中の街道を秀吉が既に管理下に置いた状況では無理なのではないか?とすく見方も有るようです。
 これに対して筆者は次の様に考えています。
 6月1日が新月という事は本能寺の変が発生した6月2日、3日は大潮、6月4日は大潮かそうでなかったしてもやはり干満差が大きく、瀬戸内海は潮流が激しかったはずです。
 ならば少なくとも一部は海上ルートで潮流に乗って移動すれば秀吉の配下の検問を経由せずに移動が可能。
 夜間は新月に近くほぼ真っ暗になっていたはずなので、当時の夜間航行が可能だったかどうかはわかりません。
 ただ毛利氏が瀬戸内海で残っていた内々の毛利氏方水軍や漁民などを使って陸上拠点での松明などを利用し海上ルートの通報システムを構築できていれば有る程度の航行は夜間でもできたかも知れません。
 仮に6月2日の14時に大阪湾か明石あたりで馬から船に乗り換えて6月4日の14時に毛利氏の所領に到着とした場合、所要時間は48時間。
 平均時速5km/hで240kmですから或いは可能だったかも知れないばかりか、潮流などの状況次第では秀吉よりも早く変の一報、特に織田信忠をほぼ討取った事が間違いない事を、旧足利幕府奉公衆である伊勢貞興ら二条城襲撃部隊からの伝令で確認できていた可能性もあると思われます。
 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。