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快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  二重スパイ方式を採用したと考えられる毛利氏と秀吉の共生関係 それは戦闘結果でわかる

2019-12-08 21:54:56 | 明智光秀
 前回記事の続きです。
 毛利氏と秀吉ですが既に癒着関係であり、生物界で言えば「共生関係」となっていたわけで、その結果は史実として残っています。
 それは「毛利方の現場戦闘指揮官クラスの武将が討ち取られていない」ので戦闘能力は殆どダメージを受けていないという事、そして毛利氏方の指揮官クラスや兵力と武器弾薬当は温存されていた事です。
 仮にこのまま数年が過ぎると秀吉方の軍資金はかなり毛利方へ更に流れ、そして信長らが援軍として進軍しても秀吉が仮に宇喜多氏、三好氏と組み、そして毛利氏に寝返れば信長の織田勢など殲滅できた事になります。
 明智光秀が信長に進言したと(個人的にですが)考えられる事とは単純にこう言う事です。

仕組みとアプローチ -  毛利氏が放った二重スパイがかなり存在した、と考えられる分析結果

2019-12-08 21:18:54 | 明智光秀
 毛利氏の家臣である玉木吉保の日記『身自鏡』によると、「毛利家の重臣の殆どが秀吉に調略されていた旨を示す書状を恵瓊に見せた」旨の記述が有ります。
 これについてですが、「毛利家の重臣の殆どが秀吉に調略された形をとっていた」という点だけについては確かにウソではないのかと思えますが、一方でそれを更に考察すると「実質で調略されていたのかどうか?」は疑問であり、「この調略が中国おお返しの直前、急にわかった」とは考えられない分析結果が得られます。
 それは昔も今も変わらない「二重スパイ」の原理であり、これを当時の毛利氏と秀吉の関係に当てはめると次の様になります。
 
 秀吉による調略は毛利家の重臣へ実際に実行されていた。
 が、しかし重臣は一人ではない。
 なので次のケースで秀吉の調略は毛利家当主やその参謀へ報告されていたものと考えらる。
 まず主君に忠実な重臣が素直に報告するケース。
 それから重臣と言えどもライバル関係であるので他の重臣が主君である毛利氏やその参謀に報告される前に自分が先手を打って報告すれば競争に勝てる。
 更にもう一つのケースでは「自分が秀吉から調略の話が有ったという事は既に他の重臣も同じ話が有る、或いは今後に同じ話が来る可能性が高いから秀吉との話を主君に秘密にしておいてもいずれバレてペナルティーとなるから今の内に報告しておいた方が良い。

 それ以外のケース、例えば偶然わかったなどなども或いは有るのかも知れませんが、大体これらのパターンで毛利氏主君や参謀らへ状況は把握されていたのではないかと考えています。
 では何故そこで毛利氏が重臣らに「秀吉との内通は厳禁」とすぐに命令しなかったのか?
 それは「毛利方中枢はわかっていながら重臣らを泳がせていた」からではないでしょうか。
 秀吉から調略を受けていた重臣らには「騙されたフリをして状況や秀吉からの情報を時事刻々報告せよ、それなら内通は許してやる」と命令し、言わば「二重スパイ」として使っていた、と(個人的にではありますが)考えています。
 複数の毛利方重臣らが「主君にいつまでもバレない」と確信して秀吉と内通していたとは考えられません。

仕組みとアプローチ -  鳥取城攻略(鳥取の飢え殺し)以降、秀吉勢の主な戦果は城2つその城主の首2つ、そして進軍ルート周辺のみ

2019-12-08 19:55:18 | 明智光秀
 鳥取城攻略(鳥取の飢え殺し)以降の秀吉の戦果ですが、その後の備中高松城水攻めと合わせてその戦果は一見華々しいようですが、見方によっては「殆ど無いに等しいもの」、とも思えます。
 戦果としては二つの城とその城主の首が二つ。そして進軍ルートとその周辺エリアのみです。
 最も大事だと思えるのは「毛利方の有力な戦闘指揮官クラスを討ち取っていない」、と言う事。
 桶狭間の戦いで今川勢がその後に弱体化したのは今川義元だけでなく多くの戦闘指揮官クラスが討ち取られたりして失う事になった事や、鉄砲などが織田勢に戦利品として奪われた事が大きい面が有ります。
 鳥取城攻略(鳥取の飢え殺し)では毛利方の有力な戦闘指揮官クラスの損失はほぼゼロであり、食糧等を買い付けたり、備中高松城の水攻め時に使った土木工事関連で使われた秀吉方の軍資金は直接間接で無視できない割合が住民や商人などを経由して毛利方へ流れた可能性が高い、と考えています。
 という事は「表面上では秀吉方が支配した城2つと進軍ルートとその周辺所領と城主の首2つ」だけが秀吉方の戦果であって、一方では軍資金の多くは毛利方へ流れ、かえって毛利方の利益になった、と見えなくもないのです。
 では「秀吉方の支配した所領は毛利方から消えたのではないか?」となるのですが、それは恒久的に秀吉方に奪われたのであればそう思えなくもないのですが、当時の秀吉勢は3万程度、毛利方は備中高松城の籠城兵と毛利氏主力軍で合計4万~5万はいたと考えられている上、野戦となれば地の利を生かした毛利氏有利となるので、「失った所領を取り戻す気になればいつでもできる。更に鳥取城攻略と備中高松城の水攻め時に秀吉方から撒かれた軍資金が毛利方へ有る程度流れた分で、毛利方が軍備増強すれば更に所領の挽回は容易」となります。
 また仮に秀吉方が鳥取城や備中高松城に籠城したとしても、今度は逆に毛利方が秀吉が使った「飢え殺し」や「水攻め」で攻略して来る事になり、逆襲されるケースでは「秀吉方がこの城を攻略した意味は有りません」。
 「秀吉勢の優位はあくまで織田勢の援軍が有っての話」であり、その援軍が来なかったり、或いは(長曾我部討伐に兵力が分散されて)不足すれば毛利方の勝利となるので、つまりは毛利氏は殆ど何も失ってはいなかったはずだと考えています。
 「秀吉と毛利の癒着」を明智光秀が信長に進言した可能性は有る、と個人的にではありますが考えています。