霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

生き方の懐述

2012年10月25日 | 心霊現象
あの世にいかないまでも、「人生」先がないと知る時、人は自分の生き方をつらつら考える。
さてその時、その想い(思い)は何と出るか・・・。
本心からの叫びは、間違いなく「あの世」(霊界)に行って口を出る「まぎれもない我が懐述」である。
これまでも幾つかの懐述を聞いた。
それは守護霊が語ることだから、「自分」の守護霊が語らない限り関係はないと、思っていたかもしれない。が、自分の守護霊が語ったことでさえ、一線を引いて人事のように聞き逃して来た者には、終焉(しゅうえん)の際はきっと「二人分の懐述」でその重さを感じるであろう。


神官と金刺家頭領の二つの役目を兼ね備えた『金刺頼芸』(かなざしよりあき)。
今から400年前に生を受けた人物である。
さらに自ら「破戒僧」と言い、どこにも属せず、100日修行をやってのけた「あの御仁」、そう
「蘭奢待」(香木)の持ち主の「あの霊能者」である。
この霊能者の守護霊が『金刺頼芸』。
金刺家は諏訪家と常に争っていた。諏訪神社のトップをかけた争いである
戦さの明け暮れと神官という、まるで両極端の勤めを果たす彼の日々は、「彼」(守護霊)の言葉を借りれば『七転八倒の苦しみ』だったと懐述する。
戦から帰り、血なまぐさい身で神に祈る。
こんな日々を続ける身の愚かしさ、そして運命宿命を呪う・・・。「人は何者なのか・・・?」。
常に己の心を苛(さいな)み続ける、そんな人生だった、という。
ある意味では「死んでホッとした」そうな。
だからあなたには、こんな人生を送ってほしくはない。本心の赴(おもむ)くままを生きて欲しい
と切望する。そんな守護霊の懐述を受けて「彼」の今がある。


そしてもう一人。
老中『堀田正盛』。徳川家三代将軍・家光のころ。
「春日局」の義理の孫にあたる彼の人生は、ハタでみるよりも楽ではなかった。
老中という役目がら、『清濁合わせ呑む』生活の日々だったらしい。
それが「あの世」でひっかかる。つまり本心が違うと叫ぶ。心の痛みとなって身を苛むという。
人間として、その心の持ち様として「清濁」が併せ呑めるハズがない!
よって「あなた」からは、真実一つの心で人生を送ってほしい・・・、と懐述する。
地上の御仁は、守護霊に「春日局」をもつ実の母と「献金問題」で揺れたあの「東銀座」の人である。


おしなべて、歴史が人の口を借りて「語る」としたら、表向きの出来事ではなく、その奥の奥に
流れてきた「人の心」の懐述にある。
それこそが、一族の歴史であり、国家の歴史であり、民族の歴史ともいえる。
流れながれてきた人の心の「大河」を集めたとき、人類の歴史がようやく見えてくる。
それは「形」ではなく強烈に「心」に迫ってくる悲しみ、苦しみ、恨み、希望等という「心情」となって「人の行くべき道」を示そうとする。


今「生」をもって生きている者は、守護霊と同じ生き方をしてはならない。
すくなからず、彼らが教え諭(さと)し、懐述する二の舞をしてはならない。
人生に「意味」があるとしたら、生を全うする事は第一ではあるが、自分の人生の意義にあわせて
守護霊の人生をも全うさせるべき「使命」がある。
この二つをやり遂げたとき、はじめて『おつかれさん!ご苦労様!』と声がかかる。


そうそう、ずいぶん前に見た夢の一つを・・・。

あの世も「女子会」があるのか?・・・、と思うような「集まり」でしたねぇ~。
「遅れちゃった、急げ急げ」と、走って息を切らす人がいる。
私が急いで走って息切れがしているところをみると、「お松さま」だろう。
ふすまを勢いよく開けて、「遅うなりました」と部屋に入る。
女子会のメンバーは約7、8人。それも膝しか「私」には見えない。
しかし「着物」だ。あの時代劇の、それも侍の娘の着物とまでは分かる。
空いている席(座布団)に座ると、隣の女人(女性)が静かに会釈をする。
「あら、ガラシャ様。遅うなりまして・・・」とわたし。
えっ、横はガラシャで、隣が(わたし)信松尼・・・・。
ははーん、この「女子会」は、日本の女の救済のための「プロジェクト・チーム」か?
さてさて、面白いところへ紛れ込んだものだ。ではチームの面々は誰か?
と、目線を膝から徐々に上へと移していく、と・・・。
あーら不思議。こんないいとこで目が覚めるなんて!

それ以来「つづき」は見せてもらっていません。



人生いろいろ、ため息も「吐息」もいろいろ。
そのいろいろを人の心に乗せて、救われようとしている存在があることを、どうぞ忘れないで
くださいね。




雑記帳

2012年10月24日 | 心霊現象
私は枕元に小さなノートを置いている。
見た夢をすぐに書こうというものだ。
最近夢をみるが、すぐに忘れてしまう。その速度が、若いときの10倍くらいになった。
つまり瞬時に忘れる。(昔はよく覚えていたものだ)
それだけ「強烈」な夢を見なくなったといえば、そうなるかもしれないが。
それとも「あの世」がもう近いから、覚えなくてもいいとか・・・。


そのノートにはまた、いろいろな事をメモ書きしている。
例えば、「認知症の予防」。
有酸素運動、つまり「ウオーキング」がいいという。
現在日本で「ウオーキング」を楽しむ人は、約4000万人とか。
全部が全部高齢者ではないが、お金もかからず、時間も自由、場所もとらない?
つまり手っ取り早い方法がとてもいい。
私も早朝、毎日7時まえにはもう外にいる。
通勤者の装いを見ながら、季節のうつろいを感じるのも一興である。

認知症の予防、次は「感動する事」だ。
一日一回は、心から感動する。
これって、なにも高齢者に限らないと思う・・・が。
しかし本当に心から感動しているだろうか? それも一日一回・・・。
TVを見て、泣くこともあれば笑うこともある。
しかし、心から感動する? どれが「感動」かを忘れた毎日の私に気が付く。(いかんいかん)

次は暗記力。
先日「徹子の部屋」をみていた。
今だに「円周率」を100ケタ覚えているという「イトーシロウ氏」。
TVでは30ケタをご披露されていた。おみごと!!
まだ、携帯電話が無かった頃、電話番号の書いてある「手帳」を持って出かけたものです。
暗記した番号もあるが、ほとんどは手帳にたよる。
その「手帳」を無くしようものなら、もう仕事さえ出来なくなる。
だから大抵の人は「もう一つの手帳」、つまりコピーを必ず用意していたものだ。
ある社長は「100件」の取引先の電話番号が頭に入っていると、自慢する。
生活環境が変われば、こんなものかもしれない。
漢字も読めればいい。書くダンになれば検索すればいい。あるいは「変換」でことはすむ。
この世は何と便利になったものよ・・・。(その反面・・・)


話は変わるが、昔私がアルバイトをしていた出版社でのこと。
玄関に朝早く、訪問客があった。
サンテグジュペリの「星の王子様」の訳をしたという人だった。
誰もいない会社の玄関で、掃除中の私はその手を止めて話を聞いた。
編集長が来るまでの「つなぎ」だ。
つまり、その御仁が言うには・・・。
今までの「星の王子様」の訳は、子供向けを意識して書かれている。
が、実はこの小説は大人向けに書かれたものである。
それも「謎だらけ」の本当の意味を書き直したものとして出来上がった。
それは、いままでの「星の王子様」とは全く違う。例えば内容が全く逆のところもあるくらいだ、
というのだ。
それを是非出したい、出版したい!という依頼だった。
「星の王子様」を読んだことがない私は、話を続けることが出来なかったし、掃除中でもあることで
その次を聞かずじまいである。
どこがどう違うのか?
フランス文学を大学で専攻したというこの御仁は、なぜかベレー帽をかぶっていたのを今でも覚えて
いる。
結果、編集長の出した結論は「うちではこのジャンルは扱わないので」、という理由でお帰りいただいた。
今にして思えば、私が知っていさえすれば、もっと話を深く、長く聞き出せたのに・・・、と残念に
思う次第。
子供より大人に訴えたいものとは、何だったのでしょうねぇ~。サンテグジュペリさん。


以前に香木「蘭奢待」(らんじゃたい)のお話をいたしました。
中国の歴史をTVで見ていました。
その中でね「茶葉」の話が出てきました。
20グラム、280万円の値がつく茶葉があると知りました。
皇帝の飲むお茶の葉。つまり中国の皇帝に献上された「究極の茶葉」だそうな。
今も中国で売っている「その茶葉」を買う人は、どんな人なんでしょうか・・・。


ま、こんなメモ書きがあちこちに書き殴ってある「この小さいノート」は、時々このブログのネタ
となり、皆さまへの問題提起となって登場しています。

『僕はね、引き出しをたくさん持っているんですよ。
 この年になるとね、たいがいの事はそれで間に合っちゃう。でもその七割以上は、お嬢(美空ひば り)からもらったものだけどね・・・』と、昔を偲ぶ「林 与一さん」の言葉でした。

今はもう言わないでしょうが、「引き出しが多い」という事(言葉)を。
若い人は、何のことか分からないでしょうね。
人生の重ね方によっては、お金に勝る知恵とか知識とか「感動」とか言葉とか、とにかく自分の宝
が積もってくるという意味でしょうか。それをどれだけ持っているか?

「そこそこのお金さえあれば、この宝のほうが自分には勝っている」と言える人生を送りたいものです。

こちょこちょの木・・・?

2012年10月23日 | 心霊現象
世の中には「不思議」がいっぱいある。
あなたは「それ」のどのくらいをご存じだろうか?
今日は植物や動物(魚)の不思議を、言い伝えられているもの(一部)をみてみましょう。
新潟の七不思議は有名である。観光バスに乗って、それを巡るコースもあるくらいだから、昔から
地域の活性化に多いに役立ってきたようだ。
その縁が、親鸞聖人の伝説にかかわるものが多いと聞けば、なるほどとうなずけるが、摩訶不思議な
ものもあるから、にわかには信じがたいものもある。
「突然変異」といってしまえばそれまでだが、親鸞聖人の手によって変わったと言われれば、「神業」いや「仏の技」かと危ぶんでしまう。

沖縄には、人の泣き声を聞いて育つ「木」があると聞く。
そこへ行って木の下に人が腰を下ろし、さめざめと泣く。
「木」は何も言わないが、確かに「それ」を聞いて、そして確かに育っている、という。
その噂を聞いて人が泣きに行くと・・・、木は決して枯れることなく常に葉をしっかりと付け、枝を伸ばし、生き生きとして確かに前よりも大きくなっている。(何の木かは、その新聞には書いてない



さて、「新潟の七不思議」とはこうだ。(詳しくは検索されたし)
親鸞の伝説にかかわる七つが、特に有名とか。
逆さ竹(さかさダケ)、焼鮒(やきフナ)、八房の梅(やつふさのウメ)、数珠掛桜(じゅずかけ
サクラ)、三度栗(さんどグリ)、繋ぎ榧(つなぎガヤ)、片葉の芦(かたはのアシ)。
以上七つである。
そして、次に是非ランクしたいものがあったそうだ。
それで八つ目の不思議として登録されたのが、「ハッチン」つまり「八珍」。
これは「おけさ柿」の別名である。
植えても植えても「種」の無い柿が出来る。
渋柿の品種であるが、正式名を『平核無柿』(ひらたねなしがき)という。
実の中に種の出来ない柿(変種、珍種)で、『おけさ柿』とも呼ぶ。
原木を旧新津市から佐渡へ持ち帰り、羽茂町(現佐渡市)で生産化し『おけさ柿』としてブランドと
なる。

ちなみに「七つの不思議」をかいつまんでご紹介すると・・・。

逆さ竹・・・枝が下向きに生える枝垂れタケ
焼鮒・・・体に黒い焦げ目模様のついているフナ
八房の梅・・・ひとつの花に八つの実がなる八重咲きのウメ
珠数掛桜・・・「じゅず」は本来「数珠」であるが、珠数掛桜においては「珠数」と表記され  
       る。花が長く房のようにつながって咲くサクラ
三度栗・・・一年に三度花が咲き、実がなるというクリ
繋ぎ榧・・・糸を通したような穴のある実のなるカヤ
片葉の芦・・・葉が片側一方向にだけ伸びるアシ

皆様も新潟へ行かれたら、是非ご覧になってください。(冥土への土産にでも・・)



私が小さいころ、家の近くに地蔵堂がありました。
そこへ子供たちが集まって、恰好の遊び場になっていました。
その敷地にある一本の木。その名は「こちょこちょの木」。
子供の間ではそう呼ばれていましたから、大きくなるまでは「その名」で呼んでいましたねぇ。
その木はね、名前の通り木をくすぐるとね、くすぐったがって身をよじってゆれるんです!
「こちょこちょ、こちょこちょ」と言いながらね、枝と枝の付け根、つまり「股」(また)を指で
くすぐると、あーら不思議、木がねゆらゆらと揺れ出して、葉や花がゆさゆさ揺れる。
それを見ては楽しんで、またもくすぐってやる、という遊びをやっていましたねぇ。
何の木かって? 後で知ったのですが『さるすべり』だとか・・・。
ウソだと思ったら、さっそく木に抱きついてくすぐってみてください。
(ただし、あの人変な人?と思われないようにくれぐれも周りに目をやりながら・・・ね)
私は今でも「さるすべり」を見つけると、ニヤッとして周りを見まわしてしまいます。
そして誰もいないと分かれば、いつでも抱きついて、「こちょこちょっ」ってくすぐる衝動にかられます。

これらのことは、いったい何なんでしょうね・・・。


「だからなに?」って言いっこなーしーよ!

植物も動物も人間とかかわる時、「心」や「言葉」で変化することは案外多いものです。
ビニールハウスで果物や野菜を育てる時、ハウス内に音楽を流してやる、などということは
もう日常茶飯事、常識になっていますよね。
果物も、何倍も甘ーくなるそうですね。
きっと「人」の育てかたも、厳しくひっぱたいて日々を送るよりも(時としては必要でも)
音楽ややさしい言葉で、甘い豊かなまろやかな人格を育むほうが得策かもしれませんね。
植物や動物が私達に何かを教えている・・・。
自然って「事の則」(ことののり)を外さず、偽らず、「正しさ」を無言で教えてくれていると
思えば、時としては「師」のごとくでもあります。

 『我以外、すべて師』と言った著名な作家がおられました。(よしかわえいじ氏?)

そんなことを思いだしながら、日々を重ねている今日このごろです。


思えば明日10月23日は、ブログで皆様にお目見得して丁度一年になります。
感無量です。本当にありがとうございます。

心から感謝申し上げ、これからも日々精進してまいりたいと思います。










玉の緒

2012年10月21日 | 心霊現象
「たまのお」と読む。
何の事かお分かりだろうか?
『死とは、「玉の緒」(シルバーコード)が切れた時を言う』とある。
シルバーバーチの言葉である。

今からしばらく前、大いに読まれた漫画で「うしろの百太郎」というのがあった。
覚えておられるだろうか。
魔界の死神が、大きな「鎌」(カマ)を持って、人とつながっている綱を切ろうと迫りくる「絵」だ。
漫画では、地上人と霊界人である「百太郎」との綱(ひも、糸)を切ろうと躍起になる死神の模様が
描かれていた。
「うしろの百太郎」とは、地上人である一人の少年の守護霊である。
この綱さえ切れば、少年は必ず死ぬ。
その存在が邪魔だった魔界の狙い撃ちにあった「少年」。その少年こそが主人公であり、「心霊研究所」の中心人物でもあった。
こうして様々な霊現象を解決してゆく「この少年」は、魔界からみれば都合の悪い存在でもあった。
・・・、とまあ話の構成はこのようにして進められていきました。
何も分からない時の私はその話が面白く、古本屋で全巻をまとめ買いして読み漁ったことを思い出しますねぇ。

今だから皆様も、守護霊と自分(地上人)を繋ぐ糸でも綱でも緒でもないことはご承知でしょう。
この「玉の緒」こそが、人間を構成する霊と肉を繋ぐものですね。
だから、この緒が切れた時をもって「死」とするというのは、真理です。
前にも申し上げたとうり、体はいわば心を纏(まと)う衣になる。
いずれは脱ぎ捨てて「あの世」へと渡ってゆく。
「玉の緒」からみたとき、人の死はこのように言い当てることが出来る。
しかし現在の医学からは、人の死は「脳死」をもって充てられている。
じゃ、脳死って何?(現代医学でも、難しいと聞く。ここからここまでという堺が解りずらいとか)
人の死を、肉体的条件で計るやり方に限界があるということかもしれない。

この「玉の緒」を繋(つな)ぎながら、人はいつまで生きるのか・・・。
寿命まで? ・・・答えになっているだろうか?
「この世」は、「あの世」から見て大きく違う価値観の中で生きる。それも気付かずに生きる。
これを生きているうちに克服しない限り、あの世へ行ってはいけない。
死んではいけない、となる。
何度も繰り返し繰り返し申し上げている事であるが、私を含めて生ける者全ては、日々が無知の克服
に費やされなければならない。
生きていくための「学歴」であり、「職業訓練」であり、「人格の形成」であるかもしれない。
が、死ぬための準備「無知の克服」は、いつやるの?


昔から遺体は3日後に火葬(その他のやり方で)する、といわれている。
つまり、死んですぐには葬らないのだ。この3日こそが「玉の緒」が完全に切れた状況を確認する
一つの、昔からの方法だという事でしょう。
ひょっとしたら「生き返る」かもしれない。それで3日間待った。
「ミイラ」伝説は、肉体さえ残しておけば、蘇ることが出来るという奇跡を願う人間の心の現れである。しかし「玉の緒」の切れた肉体に再び再生し、地上の生活を繰り返す意味は無い。
霊界が最終目的として造られた「人」に、地上にいつまでも留まることを許すはずもなければ、それを知っている魂が求めるはずもない。

さて、緒という言葉を聞いて思い当たるのが「ヘソの緒」である。
母の胎内にあって命を繋ぐ「緒」。これがへそで繋がれている「緒」だ。
そして10月10日をもって「この世」に生まれ出る。
そうだ、この「緒」が人間を三つの形態をもって生存させた「神」の妙味、技でもある。
胎中、地上、霊界と三つの形をもって人間となる。
胎中、地上は通過体にすぎない。そしてその間は「緒」をもって繋がれている。
この世に出るときの「緒」は、「ヘソ」で繋がれ親との連携で生きる。
では地上生活は「玉の緒」を、どこと繋がれて生きるの?、ということになる。
だから肉体と霊とを繋ぐ「玉の緒」のもっと先には、「親」がいるんです。
そこから「栄養」が流れてくる。つまり魂の栄養です。それが「神の言葉」であり、「神の愛」ということになる。この栄養つまり「魂の糧」がこないと、栄養失調になってよく育たない、ということ
になるのです。
その未成熟の魂が霊界へ行けば、足りない栄養分を補給してもらうことになる。
とまあ、こういった具合でしょうか・・・。


ほら、はじまった!そうくると思った!

皆様のため息、つぶやきが聞こえそうです・・・。



「火星探査機」からのすごい映像が送られてきています。
それを見ていると、私達が昔見た映画『火星人、東京にあらわる』なんて何だったのでしょうねぇ。
でも子供ながら「火星人はタコに似た生物」というイメージがバッチリついて、興味津々。
とうとう「天文学」を志した時さえあった私です。
火星には、かつて水があり生物がいたと、ここまでは分かっているそうです。
太陽系の惑星に、これほど的確に配置された「生きるための星」は地球以外にはないと、増々奇跡
のように考えられると最後に結んでいた番組を見ながら考えます。

今の「わたし」は、宇宙という広大な環境を賜った「貴重な魂」の一つであり、かけがえのない
神の分身である・・・と。

「釈迦」と「イエス」とどっちが偉い?(コードナンバー Xで見る)

2012年10月20日 | 心霊現象
この問いに「変なの・・・」と、お思いになった方も多いかと。
この問いは、私が中学校の時の社会科の授業に、先生が宿題を出したものでした。
先生の中には、もちろんしっかりと「答え」がある。
さて、生徒は何と答えるか・・・、さぞかし先生は楽しかったでしょうね。
グループで分かれながら、答えはいろいろと出ました。
二つに一つですから、答えはどちらかだ。
案の定、答えは二つに分かれ、さもそれらしい理由をつけて決定したようだ。
さて、あなたなら何と理由づけをして答えを出しますか?


先生の答えは「釈迦」が偉いと出た。
その理由は・・・。
この理由づけこそが、実はついこの間まで私を呪縛し続けたという事です。
私が「聖書」を読まなければ、きっと釈迦がこの世で一番「偉い」と思い続けたでしょうね。
では、「偉い」とは何をもっていうのか。この観念こそが実に「この世」的であるということに
気が付かない我々でもありました。

釈迦は血統がいい。インドのある地方の王様の子だった。つまり「王子」だ。
名は「ゴータマ・シッタルダ」。
生まれた時は母親の体の中に「真っ白の象」が入ってきて・・・、という霊現象(夢)がある。
白い象は、インドでは「神」の使いだ。
そして彼は王宮で生まれた。
その後、次の王として妃を娶り、幸せにくらしていたが、庶民のくらしを見、さらに人間の有様を知るとき、その「生老病死」を解放しなければとうてい「幸せ」とはいえないと気付き、求道行脚の
旅に出る。
王宮を出て、着の身着のままの姿で道を求める日々が続く。
王様の身分から、庶民のそのまた下を歩く彼は一番上から一番下を目指した「とても普通ではない」
行動が出来た「偉い」人。
それに比べ、「イエス」は大工のこせがれ。
何かの教えを述べたが、最後はみじめに十字架にはりつけられて33歳という若さで死んだ。
結局それだけの人間。まあ、その教えは世界に広がったが、釈迦とて同じ。
日本の今をみれば、キリスト教よりも仏教を家の宗教にしている人が多い。

一端王宮から出て、身分を落とした釈迦と、大工のまま終わったイエスとでは雲泥の差がある。
よって答えは「釈迦」だ、・・・と。


先生がはっきりと断言する「その答え」を、私はいつまでも信じていた。
心に刷り込まれたと言っていい。
「はーん、なるほど。やっぱりな・・・」と、今でこそその意味が解せる。

約BC500年、釈迦が生まれている。
つまり「イエス」の生まれる500年前に釈迦が仏教を説き、アジア一帯にその教えを広めていた。
なぜイエスは500年も後なんだ?一緒じゃダメなのか?・・・こんな疑問も出てくる。
さてここからが、私が聖書を学んだ結果に知る「真実」である。

神の「復帰摂理」という内容が分からないと、決して解けない答えだ。
エデンの園の失敗以来、神の救済の歴史が始まった。
「ノア」も「イサク」も「モーゼ」もその中心人物であったが、神の直系つまり血統圏に生まれるという条件と、時が合うという条件が合わなければ「摂理」は始まらない。
神の復帰摂理という「コード・ナンバー」があるとしたら、そのコードで読むしかない。
それが聖書に隠された「謎解き」の部分であった。
ひところ「ダビンチ・コード」なる言葉が世を席巻した。
本に映画にと、ダビンチの暗号を解くその快感に酔った。
そのダンでいけば、この暗号(聖書からみた復帰摂理)はたやすくは解読できないが、不可能ではない。(七つの封印を思い出していただきたい)
アダム以来、神の血統を継ぐべき人、そして歴史という時間の流れの数字が満ちた時、そして地上に
何らかの条件が立った時、「神のコード」が動き始める。地上にその「兆し」が現れる。
その全てをあてはめたとき、ピッタリと合致した「時」が釈迦の時代か、イエスの時代か?
釈迦の使命は、イエスの前に誕生しその地ならしをする役だったとか・・・。
「来たるべき方」のために、東アジア一帯の心霊を高め、仏の道を指導して「待つ」。
地球の半分が、打てば響く心の訓練がされていたら「イエス」をまさか殺しはしなかっただろう、
と言われているが・・・。
「天平の甍」の本の中で描かれている仏教伝来の有様は、過酷といえば苛酷、気高いといえばそうも
言える内容が満載である。
とりわけ唐時代の高僧「鑑真」においては、最後は失明してでも日本へ渡り、教え続けた。
日本の眠れる魂も呼びさまされ、一挙に仏教が広まっていく。

たら、ればの話はするなと言われるが、もしイエスが死なずにイスラエルを神によって制定したら、
次は確実に釈迦の教えの土台があった地、つまり仏教伝来の地を歩いたであろうと言われている。
私はあの世に行って確認したわけではないが、あの世を見た人の話では、イエスと釈迦は共に「神の
言葉」を伝えているそうだ。
それも、イエスの弟子となり神の言葉を伝えている釈迦の立場を見ているのだ。
世界の仏教界が、騒然となりそうな話だが・・・。
神の復帰摂理のコードから読み取った時、人類歴史が見えてくるという話である。


人を見る時、顔や姿で判断する。
「足元を見られる」という言葉があるが。
それはね、どんなにきれいな高級なブランドで身を飾っても、また顔をきれいに化粧しても、ヘアースタイルもバツグンでも、最高のバッグを持っていても、足元つまり「よれよれのださい靴」を履いていては台無しということ。人は足元の確かさ(いい物を履いている)をもって「良し」とする、と
いった言葉だそう。これが語源という事ですね。
この「足元(靴)」の代わりに髪の毛や、服装や言葉や礼儀を入れてみれば、人間を見る目がどこ
に行くかが分かるでしょうね。
確かに「先生」の言うがごとくに、王子と大工の子供じゃ、最初から勝負にならない。
これが人の目で判断する「この世」の判断基準でした。

今はまだいいが、「あの世」に行ったときの我々の見識の分岐点になるのは必定のこと。
充分留意されたし。


さて、このようにして一つのことを見たとき、どの「コード」(めがね?)で見るかという事は、
おおげさに言えば人生を左右する事にさえなる、と言ってもおかしくはない。
実際、私が最近読んだ本『十二単を着た悪魔』は、源氏物語を『弘徽殿女御(こきでんにょうご)コード』で読むようになっていると著者(内館 牧子氏)が言う。
まさしくその目で読めば、あの「源氏物語」がまるで生き物のように息づき、うごめいて展開する。
あれよあれよという間に、すっかり「その世」に同化し、自分まで息をしていっしょに平安の時代に
生きて見聞きしたかのような錯覚に陥る。
私の姉は最近、あの「源氏物語」をようやく全巻読み終わったと自慢げに私に話す。
今思う、姉は何の「コード」でその長編を読み合えたのだろうか・・・。
(きっと、「光源氏コード」だ、と思っているが・・・)


あなたは自分の人生を「何のコード」で解読しょうとしていますか?
これが、今日の私からの問題提起と思召せ!
まだ時間はたっぷりありますから、どうぞ考えてみてくださいね。
秋の夜は、長いのですから~。