霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

日本の「歴史」が消える日

2014年01月13日 | 心霊現象
かつて私は「忙しい」という「忙」の字は、心を亡くすという意味だと申し上げた。
心を亡くすほど、我々の日々は忙しいのだろうか・・・。


先ごろ、NHKの資料室で一つの古い「フィルム」が発見された。
「アーカイブス」としてまとめられた「古い動画」のフィルムが、時々TVに流される。
今の技術で「修正」された結果、まるで新品のように蘇るものもあるという。
が、今回のものは白黒フィルムであり、さらに鮮明さも欠いているが、あの「やまだようじ氏」の若き時の助監督時代に「氏」が自ら撮られたという貴重な品ということから、番組で取り上げられた。
氏を迎え、そのフィルムを見ながらの対談でもある。
よくぞ残って出てきたものだ!という「代物」であれば、氏にとってはそれだけで感慨深いものであったろう。
その題名が「遺族」。昭和30年代初期のものらしい。
映画の半分は特攻隊員などの実写があり、戦争の生々しい場面もある。が、あとの半分はその後の、つまり終戦後の若者たちのインタビューになっている。
「特攻って知っている?」(知らない)
「お国のために命を賭けて死んで行った人達、どう思う?」(ばかじゃないの・・・、自分の命を賭けるなんて)

と、フィルムの向こうで当時の若者が答える。
懐かしそうにそれを見ながらも、しみじみと語る「山田氏」は、今はもう「戦争のことを語る人さえ減ってきている」。ましてやその話を聞く人など、無きに等しい時代になった。
それではいけない!そう思って、今に至っている。なんとかしなければ・・・。
と話しておられた。



「おととい」の話になる。
夕方のニュース番組中の「特番」でもある。
「日本の軍装品が海外のコレクターに買われている」その実態を特集したものだった。
実例は中国、カナダのコレクター。なぜ「そんなもの」をお金を出してまで集めるのか?、の問いに彼らは答える。
他の国のものは興味がない。「日本」のものだから集める価値がある、と言い切る。
ゼロ戦のプロペラの一部。さらに軍服、「千人針」をさした「てぬぐい」。さらにさらに飯盒、カバン、そして国旗、菊の紋章いりの勲章。とんでもない物には「位牌」さえある。
東京のとある「場所」で、そのたぐいを集めた「店」がある。
みんな「先祖さまの遺品」の始末に困り、人から聞いて段々集まってくるのだという。
思えば、丁度「今」はそんな時代(時)だという。
戦争に行って闘った人達が、死んでいく。さらにその子供でさえ身内の遠い方の事は知らない。
それに一度も会ったこともない人の「物」は、ごみとして捨てるか、金になるのであれば「そこ」へ持ち込む。そして戦争という痕跡は、多分もうすぐ「この国」から消えてなくなるだろう。
それが、つまり時代の節目という波が今日本にきているのだ。(と店主がしみじみ話す)

昭和15年と書かれた「白木の位牌」、これからゼロ戦に乗り込み、行きます、と親にあてた遺言状。
これらが「売りもの」の中にある。
また、ほとんどは焼き捨てたはずの「国家の秘密事項のメモ書き」が、「こより」に綴じて何冊にもまとまって店主の所に集まる。
もう「そんなもの」は、家族(遺族)にとっても、国家にとってもいらないものと化したのだろう。
日本中が、今でいう「リセット」をして、出直そうとしている?・・・。

「売り」に出ているものを見て、実際に戦争に行って闘った方が「言う」。
『これ、売るかぁ?!』と。
お孫さんにはどうしてほしいか?、との問いに。
『家宝にしてほしい!』と言葉に力が入る。

今までも「波」はあったが、これが最後の波、つまり最後の売り時だと思う・・・、と店主は言う。
そして人は、「日本人」は「戦争」を忘れ去っていこうとしているのだ。
人も物も目の前から消えれば、「無い」に等しい。「歴史」の一つが崩れ去り消え失せる。


「日本がアメリカと戦争したって、おまえ知ってるか?」
「うそだろう、そんなこと誰も言わないよ」

目の前の中学生が会話をしている。
「わたし」はびっくりして、その顔と話の内容に身も心も奪われて、もう少しで電車から降りるのさえ忘れかけた・・・。
とは、第二次大戦を戦った方の生の声である。(山手線の電車内のことだという)
去年のことになるだろうか・・・。
「日本傷痍軍人会」が解散した。
最初は35万人の会員が5千人になり、ほとんどが90余の年齢となった。
涙を浮かべて「解散」に踏み切ったという。もう続かない、これが本音だった。
「日本遺族会」も同じ憂き目にあっている。会長「尾辻氏」も、先の見えない遺族会を諦めたようだ。
日本人が忘却の「大戦」を、海外の遺品コレクターによって偲ぶ日があるかどうかは知らない。
が、「あの世」の恐ろしさを知らない国民は、これで「事なきを得た」と過ごしていくだろう。
靖国神社も同じことだ。靖国が「ある」ことさえ忌み嫌う日本人の人口に比例して、まぎれもなくいつかそのしっぺ返しはくる。
「遺品」の全ては叫ぶだろう・・・。(このしうちは、決して忘れない・・・と)


遺品と共にある魂は、間違いなくこう言うだろう。「日本」から海外へ売られてゆくくらいなら・・・、あの「パラオ」へ帰りたい!と、きっと言うに違いない。
それほどに彼ら「パラオの人たち」は「礼を尽くして」今に至っている。
彼ら(英霊)の心の拠(よ)り所は、もう「靖国」ではない。「パラオ諸島」のペリリュー神社となっていくだろう。その方が彼らにとってはどれだけ「安住の地」となるか・・・。

恥ずかしさも、ここまで落ちたらもう何も言う事はない。
これ一つとっても「国の亡び」に値するだろう。
相手を右翼だ、国粋主義だと、言い方には知識人としての権威を引け散らかして「己の思想」を肯定するだろうが、そのくせ自分が「亡国」の一員であるとは夢思ってもいない人に、今後この国を任せることになる予感は、なきにしもあらず。
今はまだ、日本の歴史から「大戦・戦争」の部分が消えていくだけ?の話であるが、いずれ「日本の歴史」全部が消えていく日が、必ずくる。
私は預言者ではないが、「方程式」だけは解けるつもりである。
心を亡くした者に、心を亡くした家に、心を亡くした国家に「将来」が約束される訳がない。
さらに再びの「歴史学者アーノルド・トィンビー」の言葉をかぶせてみれば・・・。
『その国の将来をと問われれば、その国の若者を見せよ!』・・・と。


目に見える世界や、そこに生きる人数を気にするか、それとも見えないが厳然としてある「あの世」の心とその人数を気にするか。
これからの勝負は「そこ」が分かれ目となる。
神社仏閣に詣でながら、心は金目当ての胸算用では、・・・はてさて、八百万の神は「この国」の民位(霊位)を何と計られようか。
国家の品格のことでもある。
品のない、えげつない、金の亡者に成り下がった日本の姿は、八百万の神は見たくも、知りたくもないだろう。ならば、「親」として今後をどうなさるか・・・。
日本を見守る八百万の神である「親」は、生易しい方々ではないとみる。
さらに今年は、「蘇りの神々」を日本中に迎えた「日ノ本の国」であれば、むしろ今後が期待で胸が膨らむくらいである。
東南海プレートが「くしゃみ」することくらいは、覚悟しなければなるまい、と思っている。


『天網恢恢疎にして漏らさず』、再びこの言葉が蘇ってくる昨今であります・・・。