霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

ペットロスと「クローン技術」

2014年01月08日 | 心霊現象
深夜のラジオ放送を聞いてのこと。
インタビューを受けている人は「ペット」を最近亡くした人。つまり「ペットロス」の人だ。
2~3か月、まるで何も手につかなかったという。
そこで勧められたのが、「クローン技術」による再生のペットのこと。
そんなに引きこもり、人生の半分が失われたような生活をするくらいなら、「同じペット」として再び取り戻して「生きる甲斐」にしたらどうか・・・、と動物病院の医者に勧められたという。

「しかし、わたしは断りました。同じのは、形だけ。中身、つまり『その子』がその子であった証は、どこにもない。まるで別物として与えられた『もの』に、わたしは何の感動も生き甲斐も感じないだろうと思った。形だけのものでしかないなら、ぬいぐるみの方がまだましです」

と、ラジオの向こうできっぱりと言い切る彼女の顔が、手に取るように分かった。
きっと涙をおさえてのインタビューだろう・・・。


先日TV映画「相棒」の、再放送をみた。
それは、「人間のクローン」を扱っていた。
母親はクローン技術の第一人者。その娘は、最近事故でご主人と息子を失った。
娘のたっての願いで、成功率何%もない「再生術」に賭けた。もし万が一成功すれば、「自分の名声」は間違いなく上がる。しかし現時点では、日本における「クローン人間」の許可は下りていない。
息子は、最近熱心なクリスチャンになったばかりだ。
もめにもめた結果「家庭内殺人」へと発展する。殺したのは「娘」、殺されたのは息子だ。

人にもとる行為を、神がお許しになるはずがない。神への冒涜だ!、と譲らない息子は、世間に向かってそれを暴露する。
が、道行く人は誰も気にとめようとしない。「おかしくなった人間」のたわごとくらいに聞いている。
娘のお腹の中には、間違いなく「むすこ」のクローンが、細胞分裂をおこし、成功の兆しをみせて成長している。もう25週目だ。人工中絶は出来ない。
さあ、どうする・・・。(結果は、子供がお腹で死ぬということで、この世に「クローン人間」が出現することは避けられた)
相棒の二人は、母親が娘の身代わりに自首したことを証明した。めでたし、めでたしで終わる?。
が、やはり終わってはいなかった。
あなたなら、どうしますか・・・、という課題を残したまま幕が下りる。

母親は再三説得をする。「形だけしか同じくできない。坊やがそのまま同じになって出てくるわけではない。それでもいいのか」と。
生きがいがない今、何もなければわたしは死ぬ・・・、と脅しにかかる娘。


どんなに愛しても、「その子」ではない。形だけの「もの」を、それでも再び愛して何を求めるというの?・・・と、母親の悲痛な声がドラマの全てを物語る。


動物でも人間でも「形」だけは可能になった「クローン技術」。
そういえば、前に「ジョン・レノン」の歯から、クローンを作ろうと、アメリカでプロジェクトチームが立ち上げられた話を聞き、ここでご紹介した。
夫人の「オノヨーコさん」さえ願わない「彼のクローン」を、何のために作るのか?・・・。
そのクローンに、音楽の才能などあると思うほうが間違っている。
所詮「形」だけが同じというだけの話である。

そしてこうも書いた。
神は人に霊と肉を与えた。肉は土から、霊は鼻から息を吹き込んで人は「生きるもの」となった。
と、書かれているのが聖書である。
人と人によってしか、「人」は生まれない。霊を持った人のことである。
もし「クローン技術」で人が再生出来たとして、「霊」は出来ない。
霊を持たない人間は、「人間」とはならない。形(肉)だけの「もの」である。
さらに「神の子」としての立場を持たない「もの」は、死んで終わりである。
霊界に住むわけではない。神の子の特性もない。
責任分野もなければ、人間としての成長もない。霊がないものには、万物としての成長だけがあるのみだ。
動物なみの感情は、かろうじてあるだろうが、深い心情などという「領域」は、もっていない。
ましてや「神」の最も神たるゆえんの「愛」は、クローンには分からない。
そこに「親子の情」が、生まれるわけがない。
神と人を結ぶ、最大で絶対的なもの。それが「愛」であり、それも「親子の情」であれば、人が人である絶対的条件は、霊を持ち、愛を感じ、親と子の絆が結べること。
宇宙の真理が「それ」に尽きるとまでいわれる所以(ゆえん)が、ここにある。

クローンを作ったところで意味がないことは、知っているはずである。
本心の深いところで人は、何かを知っている。
本心が分からなければ「良心」でもいい。人としての「良心の呵責」は、誰もがある。
その琴線に触れるとき、ようやく人は「あわや!」の一歩手前で踏みとどまる。
「第六感」とか「胸騒ぎ」などという、非科学的ではあるが確かに「ある」その霊感で、日常生活が成り立ち、守られていることを知る。

動物病院の先生が、それほどまでに勧めるとは思えないが、「クローンの再生ペット」が日常茶飯事になったとき、これを進化と呼ぶのか、それとも「堕落」と呼ぶのか・・・。
時として文明・文化の名のもとに、人は堕落の一途を辿っていくことは、おおいに危惧されることではある。
その行き着くところが、人類の絶体絶命のところであることを知らなければならない。

アマゾンの原生林が、人により、その半分以上が伐採され失われていくとき。
自然は破壊され、生態系も破壊され、思ってもみない「自然災害」に見舞われる、という結論が見えてきたという。
撒いた種は、いつか刈らなければならない「因果律」、あるいは「宿命」は、不気味にも地球規模で「今」に警鐘を鳴らし続けている。


ペットは何のためにあるんでしょうねぇ。
彼らは、はたして「幸せ」だったのでしょうか。
万物の霊長たる「人間」に飼われて、本当の存在価値を発揮し、味わって死んでいった「ペット」は、はたしてどの位いるのでしょう。
答えはゼロ。だって、自分が何者かを知らない人間が、動物の何を知って飼いつづけていたというのでしょうか?。
一人よがりの、勝手気ままな、我がままな、愛を知らない者の「ふるまい」で、同じ時間を過ごしたにすぎない。
挙句の果てに、ペットと一緒に入る「お墓」まで用意され「そこ」に骨が埋められるとなると・・・、彼らは思ってもみない己の最後に、ビックリ仰天するだろう。

自然は人間の思いが造りだすものではなく、始めからあった姿こそ「神とつながる自然」であれば、ゆめゆめ手を加えすぎた造りものにしては、なりませぬ。
自然に似せた「ニセの自然」。しかし、あまりにも精巧にできたつくりものは、もはや比べようがないほどの出来栄えである。
その見分け方が、たった一つある。
「神をそこから感じとれるか・・・」、大自然は必ず神宿るところであれば、動物もまた「そこ」にあってこその「本来の幸せ」ではないかと、思う次第です。

ペットを飼っているみなさま。またペットロスになったみなさま。
どうぞ今一度「ペットって何?」と、ご自分の胸に聞いてみてくださいませ~。

(私も猫を飼ったことがあり、さらに死なれた経験もありますので、少しは「その心」を分かるつもりで今日これを書いております。そして私も自分の胸に手を当てて、聞いているのです・・・)