霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

大門さん、そして皆様へご報告

2014年01月04日 | 心霊現象
「松山事務所」を訪ね、今帰ってきたところです。
正月三が日は、何かとお忙しいと思い、日を少しずらして「今日」といたした次第です。
午前10時ちょうどに池袋のビルへ着きました。
最上階12階へ上がって、「あれ、ない?」。事務所がない・・・。
あわてて「電話」を入れました。
(だからいわんこっちゃない。10年ひと昔というのに、ふた昔近くご無沙汰していたとは・・・)
しかし運よく、事務所へは繋がりました。
事務所の階まで降りて、また迷いました。同じように大きくりっぱな「正月飾り」が、二つのドアに掛かっている。名前も出ているが、事務所がどちらとも分からない。
手を伸ばして「ベル」を鳴らそうとしては止め、違うドアへ行っては覗きこみ、行ったり来たり思案をしている・・・。と、一つのドアが開いて、「こっちです」と若いおにいさんに招かれた。
そういえば、私は「松山事務所」は初めてだった。
先に伺った時、つまり「アボジの名代」の時は、組の会合で混雑していて、大座敷で「ドン」にお会いしたからだ。
今日は、こじんまりしたマンションタイプの一室に通された。
「今日はみなさんが、当番ですか?」と声をかけると、けげんそうな顔をしていた「若いの」が、今度はニコッとしながらおじぎをした。
事務所の電話番が「当番制」だと知っている「年増」は、そういないということだ。
第一関門突破だ。
さらにもう一人、年期の入った「おにいさん」が、けげんそうな顔をしたまま立っている。
「若いの」は灰皿を洗って拭きながらテーブルに置こうとしていた。が、私はいらないという動作をした。
いっこうに座れとも言わず、小さな応接セットの椅子は、誰も座らずに空いたままだ。
三人で突っ立つのも何だし、「いえー、実はね~」と言いながら、私は勝手に座った。
反射的に「若いの」は、相対して座り、年期の入ったおにいさんは、立って手を前に組んでいた。
さて、こんな場合は当然私から身分を名乗るのが順当であろう。
それで私は二つの荷物を前に出しながら、こう切り出した。
「長い時間ご無沙汰いたしたお詫びの品と、これはかって○○さんからお借りした大事な資料です。
これからお届けしてもいいし、こちらからお渡しいただいてもよろしければお願いしたいと思います。私は松山氏の旧友○○氏の会社の「○○興業」元事務員をしていた者。
○○組の二代目を継がれたと聞く○○さんにお借りした資料です。
今もお元気でしょうが、どうしたらよろしいですか・・・」と。

「おにいさん」は直立不動のまま動かない。(こまったなぁ、これ以上話が続かないじゃないか)
「若いの」は、何も言わない。さらにこれから二人が何を話し始めるかに、興味津々という顔をしている。
(では、話を変えよう・・・)
「今日はきっと氏もお疲れで休まれていると思って、・・・それでも来ました。ご高齢にもかかわらず、いまだお元気で『てきやの生き字引』として後輩を育てていらっしゃると『大門さん』から聞かされています。
後日また是非お伺いしたいと思いますが、よろしくお伝えください。ところで大野組いまどうなっていますか?いい方でしたのに、死にたくなかったでしょうに・・・」

「その大野組ですが、今はもうありません」と、とうとう「お兄さん」が口を開いた。
「わかっています。亡くなったことも。しかし次に誰かが継いで・・・」と、私。
「いえ、組はつぶれました。さらにあなたが借りたというこの資料。この人は行方不明です。
もしあなたがご存じなら、是非こちらが聞きたいくらいです・・・。もう10年くらい前になりますが、突然行き方知れずになりました。理由?わかりません。原因は女なのか何なのか・・・。
堅気(かたぎ)になりたかったんじゃないんですかねぇ~。いえ俺もよく分かりません。でも俺、可愛がってもらったから・・・」

そうかそうか、「この世界」も無常なのだ。
そこで「本」の話を少しした。
氏が韓国からきて、なぜ「極道」だったのか。なぜ日本だったのか。なぜ「やくざ」ではなかったのか、極道に何を見、何を極めたのかを聞きたくて今に至っていると・・・。
「俺たちも韓国へ何度か連れて行ってもらいました」。
「では、氏の本名もご存じですか?」「はい」
「その読み方、日本語の発音ではなくて、分かりますか」「はい【曹】は、ちょうと発音します。あとは・・・・」。
私は急いで韓国名に発音のふりがなをつけた次第。
それを聞きながら「若いの」が、ようやく私を信用したようだった。

長居は禁物とそこで腰をあげ、またの機会を約束して帰ってきました。
帰りしなに、「お兄さん」が袋を私に差し出す。「どうぞ、お持ち帰りください」と。
「おや、いつもの三原堂の塩せんべいですか?」と私は独り言を言いながら、「頂いてもいいんですかぁ」と言いつつも、もう手はしっかりと袋を握っていた。


帰ってきて「今」私の部屋には「氏の写真入りのカレンダー」がぶら下がっています。
松山組の紋章入り、つまり「代紋」がしっかりと輝く筋金入りの「カレンダー」が、玄関に下がっています。
これならどこから見ても、りっぱな松山組の組事務所のようです。
そして今私は、大野氏から頂いた「コーヒーカップ」に茶を入れて飲みながら、ここにある「幻の大野組事務所」を眺めるかのように、長い月日の経過を偲んでいます。
門外不出の資料は、その「お兄さん」に渡し、その後をお任せしてまいりました。


もし、私が「松山氏」を書くとしたら、・・・。
かの方の守護霊がどなたであり、何の目的をもって日本へと渡らせ、「極道」のドンへと導いたのか。さらにそれは日本と韓国の「どの時代背景」による清算を兼ねてのことがらであったのか・・・。
再度、ここで思い出すことがある。
あの「南原城」(なもんのしろ)の金将軍のこと。さらに陶工となった「沈寿官」のこと。
さらにさらに、「論介(のんげ)」さんの事。

そんなことになるから、つい考えちゃうんですよね~、と言って帰ってきました。
「お兄さん」は、ぽかーんとして玄関に立ったまま。
(この方々には、正月早々刺激が強すぎましたかねぇ・・・)


以上です。
皆様へ、謹んでご報告させていただきました。


そうそう、その帰路のこと。
池袋駅まで急いで歩いていると・・・。
さっきから前を歩いている「青年」が、人に何かを話しかけている。
二人、三人、また次の人へと・・・。
急ぐ私の前に止まって、何かを話す。(そうか、日本語じゃないのかぁ)
「いけぶくろ・すてーしょん」と聞こえる。
池袋・駅でしょ?、わたし行く。一緒にいこう。(通じた!)
青年は一生懸命にしゃべる。(説明する)が、私には分からない。
「どこから来たのさ」と言う私をみて、分からないようだ。
たった一つ知っている英語をつかう。(ほえらゆー、ふろーむ?)どこの国からきたんだべぇ
「おー、○○」(アメリカのどこかの州だ)おー、いえーす(難儀なことだ)
その後分かったことは、一か月くらい日本にいて、さっきまでは京都観光をしていた。
これから池袋で友達にあう。明日からは北海道・札幌へいく。
「この寒い時に、京都と北海道なんてよくまあ寒いところを選ぶねぇ」と言ったら。
「おー、のー。札幌はわたしの英語の先生に会いにゆくのです」って言ったようだ。
ま、無事に池袋駅まで案内出来てよかったか・・・。
信号が点滅して赤に変わるまえ、「へーい、はりーあっぷ!」と私。(つい口から出た)
「オッケー」とアメリカ青年。
「なんでマスクをするか。病気か」と聞いたようだ。
わたしは歳よりだから、と言ったつもりだが、マスクをすること自体、めずらしいのだろうか?
「年寄じゃない、走っている」と言ったようだったから、こう答えた。
年寄(おーるどうーまん)でも、外に出たら歩くスタイルは、若くする・・・、と。
通じたらしく、「おっけー」って、笑った。


7年後にくる「オリンピック」。
こんなものでは追いつかない。はい英語の会話のことです。
しかし、何とかなるだろう。カタコトでいい。一生懸命に対すれば、彼らも分かってくれるはずだが、最低限度の会話例は、覚えておいたほうがいいかもしれない。
今日私が「青年」にだした注文は、「やさしい英語」を使うことと「ゆっくり話す」事だった。
「おっけー、はいわかりました」といった。
とっさに出てくる英会話。
10個くらい覚えて、準備して待つのもいいかもしれない・・・。
と、私は今日の体験で、しみじみ思った次第です。