霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「ここに幸あり」という歌

2014年01月03日 | 心霊現象
このブログをお読みくださっている方の、はたして何人が知っておられるか・・・。
この歌は「大津美子(おおつよしこ)さん」が歌ったものでした。
今でも時々、「なつかしのメロディー」として登場する歌です。

♪ 嵐も吹けば雨もふる 女の道よなぜ険し
  君を頼りに わたしは生きる 
  ここに幸あり 青い空

  命のかぎり呼びかける こだまの果てに 待つは誰
  君に寄り添い 明るく仰ぐ
  ここに幸あり 白い雲


ここでなぜ、この歌が出てくるのか?・・・。
はい、まだまだ目出度い日に、「女の道」の目出度さを一緒に祝いたい、とまあこういう趣向でございましょうか。
いきなり「女の道」とか、「なぜ険し」などと言えば、何かと難しい哲学の話でも「おっぱじまる」かと思うでしょ・・・。
ふふふ、その通り!。
実はね、「この歌」はとっても霊的なんですって。
いやね、作った本人は知らないでしょうが(認識していないでしょうが)、実によく出来たというか、「言い得て妙」というか「神さま」がね、喜んでいるっていうか、気に入ったというか・・・。
ある人に言わせると、そうなんですって。
神様が「太鼓判」押すなんて、「この世」にあるんですかねぇ~。
実はね、ここだけの話、あるんです。
今からもう10年も前になってしまいましたねぇ。
あの「韓流ブーム」の生みの親ともなったドラマ『冬のソナタ』。
神様の太鼓判が押されたものだって、私聞きましたよ。
えっ、あのドラマから何を学べと、神がおっしゃるか?・・・。
初恋を10年も心にあたため続けたその「女ごころ」が、神が人類を求め続けた心そのものだということらしいですよ。
これをきっかけとして、韓国と日本の「かけ橋」が頻繁に往来できるように増々多くなっていく、とのこと。(本当にそうなった感がありました、しかし今は・・・)
経済効果もはんぱじゃなかったようです。
なーるほど、神さまの太鼓判かぁ~。

では「女の道」は、今までなぜ険しかったのでしょうか。
封建時代からついこの間まで、女というだけで世の隅(すみ)に押しやられ、身分があるようにみえても、所詮政略的に使われた「コマ」でしかない。一頃どこかの大臣が言った言葉『女は産む道具』とは、まさしくそうだったのです。(今だから「かの大臣」は止めざるをえなかったが・・・)
エデンの園の出来事は、そう簡単には白紙に戻らない。
人類の歴史が今日まで引きずってきた。いや、これからも引きずるだろう。
女の道。同じくあるはずの「男の道」が、解決に向かって歩み始めた時から「険しい」道が待っていた。
しかし、道はあった。導きという目に見えない「親」の気配によってのみ、先に「幸せ」が待っている。と、いうシナリオの確かさは、常に人類を導いてきた。
人類の女の始祖「イブ」が、どの道へ行けば「幸」に辿りつけたかは、神の復帰摂理が示し続けてきた。
それは「失った言葉」つまり『君を頼りに』わたしは生きる。
そこに幸があると解くこの歌詞は、聞く人が聞けば「真理」そのものを語っているということになる。
ある時代、一世を風靡した「この歌」と、これを歌う「歌手」。
神が太鼓判を押し、喝采された「この歌」が世に流れた時代。それはいつで、どこだったか・・・。
時が去る。そして人は忘れて思い出しもしない。
そして再びの神が押された「太鼓判」。「冬のソナタ」のTV映画。
歌はその歌詞の中に、ドラマはその台詞の中に、必ず伝えたい「メッセージ」があるという。
ならば、歌のどれが「それ」で、ドラマのどれが「それ」だったかは、人の心に、その時一番強烈に響いた「もの」。それが「神からのメッセージ」になる。

「命のかぎり呼びかける こだまの果てに待つは誰。君によりそい明るく仰ぐ、ここに幸あり~」
と、女の険しい道が次第に幸せに行き着く路程を指し示す、というのだ。
なるほど、なるほど。「こじつけ」もここまでくれば脱帽!と言う方。
日本の歴史の中で、せめて「女の歴史」をひも解く時、どこからが「解放」の時代を迎えたかお分かりになるだろうか。
虐げられたその長い闇の時間は、ついこの間まで続いていたではないか。
その間に、出口を求めても与えられなかった「女の叫び」や「その怨念」は、今もこの世に確かに息づいているはずだ。
「平塚らいてふ」が女性解放のはしりだったと人は言うが、そこまで歴史を積み上げてきた「女の涙・汗・血」が、風穴を見つけ「その時、そこ」をめがけて突出した丁度時同じくして「女の道解放」の連鎖が火を噴いただけのことだ。そしてその背景には、いつか「この世」にあのイブの汚名をそそぎ、復活の瞬間を与えようとされた「親なる神の心」が大いなる働きをされたことを、疑う予知はない。


罪の根源である「イブ」が「君」によって蘇っていく姿は、あの「マグダラのマリア」が「イエス」によって復活していく姿とダブっていく。
うがった言い方をすれば、「罪深い女」が道を示す「お方」によって親なる神のもとへと帰ってゆく
姿であり、その賛歌である。
神の目からみれば、「この歌」こそ、そして「この歌手」こそせめても『国民栄誉賞』を与えたいと思われるだろうに・・・。

さてさて、目出度さも今日までとなりました。
正月三が日は、いかがお過ごしでしたか?・・・
日本の太平洋側は15度もあるという晴天続き。かたや日本海側は、30メートルの横殴りの吹雪。
かつてはそれぞれを「表日本」「裏日本」と表現したほどでした。(本当に冬場はそのごとくです)
その冬の裏日本に『一つ位は「いいこと」があってもいいじゃないか』と言って、国家予算を投入し、鉄道、橋、道路を数々造ったという『田中角栄』氏。
新潟の片田舎に生まれ育ち、冬場の裏日本がどれほど苛酷であるかを知る「氏」であればこそ、政治家となった動機も行動も「そこ」にあり、さらに苦労する親の姿にこそ彼をしてそうさせる「原動力」になったのだという。
今でも新潟では「たとえどうでも」、彼は「おらが角栄さ」なのですよ。
いえね、昨日TVで特番をやっていて「それ」をみたら、田中角栄氏の一代記をやっていました。
われわれの知らない姿(総理の覚悟が)娘によって語られていましたねぇ。
例えば、日中国交回復のあの時は、刺客に狙われて死ぬかもしれない覚悟で訪中したとかね。

その行動の根源が、「親孝行」だったと知ると、何も言えなくなってしまいます・・・。
が、申し訳なく思いながら、今一度「萱野三平」を思わざるをえません。
『忠ならんと欲せば孝ならず。孝ならんと欲せば忠ならず・・・』。

かつては『忠孝の源、ここにあり』と謳われた、この日ノ本の国。
今年は、「神の太鼓判」が押されることを待ちながら・・・。

再びの・・・。
♪ どう咲きゃいいのさ このわたし~・・・、と歌いながら。