ラグの「素直に生きれば人生は楽しい」

主に人生の歩き方について「人生お弁当箱診断」など
以前のブログ名:和色ムーブメント

このお店から始まった [前編]

2008年04月29日 | 昭和懐古


26年前、
山(鳥取大山)から降りた私。
何の当ても無かったが ・・・ とりあえず大阪へ。





大阪淀屋橋にあった “Cafe & Bar” ( 「カフェバー」 ・・・ 懐かしい響きです )
この写真のお店が飲食業界で働くキッカケとなったお店で私のベースです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

山を降りて実家に1週間ほど居ただろうか。
“そろそろ動こう ・・・” と思ったその日にのうちに新幹線で大阪へ向かった。
今思えば、なぜ新幹線で大阪へ行ったのか疑問である。( 近いのに ・・・ )
新大阪駅に着き、たぶん一番先に目に付いた不動産屋に入って部屋を求めた。

条件と希望の場所・間取りなどを聞かれて、 
 “間取りは1Kか1ルームでいいです。”
 “場所はどこでもいいけど、駅に近いところがええかな~。”
 “家賃どれ位します?・・・ 払える範囲で ・・・!?”
と、世間知らずでええかげんな会話をした記憶が ・・・ 。
まだ仕事も決まってないのに部屋だけ先にキープした私でした。
( 小さい頃から、決めると後先をを考えず行動するタイプ!? )

住む場所はどこでも良かった。が、あったとすれば、“山で知り合った彼女が来阪
しやすい場所” が頭にあったかも ・・・ 。新大阪駅前(東口徒歩数メートル)にある
雑居マンションだった。普通に生活している人はいないのではないかという怪しい
マンションだった。5階の北側で8帖ほどの1ルーム。一人暮らしには何ら問題は
なかった。窓からは東京方面から新大阪駅に入ってくる新幹線が目の前に見えた。
というより、時々新幹線に乗っている人とハッキリと目が合う距離だった。
( ほんま近い!10㍍位やったかも ・・・ )

数日、
求人情報誌( 「アルバイト情報」 と 「アルバイトニュース」 )を頼りに職を探した。
別段、仕事にこだわりはなかったが、「人と接する仕事」 がしたかった。それが
山を降りる時に決めた大阪に出てきた唯一の目的やったから ・・・ 。

この頃の求人誌に掲載されている求職の8割以上が飲食店スタッフの募集だった。
「人と接する仕事」 ということで、結局、飲食店を中心に数ヶ所のお店で面接を
してもらった。そして、レギュラー(社員扱い)希望を伝えると、どこのお店でも
必ず同じ質問をされた。

 店 : “経験は?”
 私 : “学生時代ですが、食堂や喫茶店でバイトしてました。”
 店 : “なんでうち(そのお店)を(選んだのか)?”
 私 : “え~っと、別に ・・・ ”

当たり前ですが、これでは雇ってはもらえない(雇ってもらえませんでした)。
こうした面接を何度か受けるうちに、飲食店(サービス・接客業)をやっている方
たちの考え方や仕事に対する思いが少し理解できるようになっていった。それが
今の自分にとって大きなプラス(財産)になっていることは間違いありません。
そう余裕はなかったのですが、“こう言えばどう反応するのか?” というところまで
試すようになっていました。ただ、さすがに1ヶ月も経つと遊んでいる場合ではなく、
真剣に仕事を決めないと生活費が底をつきます。( ちょっと焦りました )

“リニューアルオープンしたばかり” というお店の広告が目に付きました。
あとで聞いたのですが、業態も店名も新たに立ち上げ、以前から働く数名の
スタッフの存在を除いては 「新規オープン」 でした。今はもう、このお店は無い
のですが、今あっても違和感のないほど洗練された外観、プロジェクターを備えた
パーティールームやサンルームがあり、内装は白壁と木目の家具を基調とした
オシャレな雰囲気。四半世紀前、ある意味、淀屋橋で一世を風靡したお店でした。

それまでの失敗した面接経験を踏まえ、“絶対に滑らない(落ちない)” ように、
受身でなく攻めの姿勢で面接を受けることで、思惑通り採用となりました。
受け答えの内容は言えませんが、今でも私の中に、こう言えば(語れば)採用
されるというものがノウハウとして蓄積されています。

 



私自身、料理を作ることに興味やあこがれはほとんど無かったのですが、
“折角なので、まずは厨房に ・・・” ということで、「モーニングタイム」 の厨房が
メイン担当のバーテン・調理見習といった職種でレギュラーとなりました。朝は
早いです。営業は7時からですが、昔からの常連さんが6時半には店の中へ
入って来られます。私は6時までに行かなければなりません。しかし、苦痛では
ありませんでした。実家の仕事、山での仕事、共に朝早い仕事でしたので ・・・ 。

お店のマスターのお父さん(「旦那さん」 と呼ばれていた創業者)が朝一番で
お店を開けて3時間ほどモーニングタイムを手伝ってくれていました。70歳を
越えている旦那さんと私、そしてもう一人16歳でヤンキーの若い子という
バランスの悪い3人で厨房をやっていました。ハイセンスなお店なのですが、
朝は旦那さんの存在が大きく、昔ながらの喫茶店の雰囲気で覆われていました。

昼前になると、
昼(ランチタイム)・夜(ディナータイム)担当のスタッフが順番に出勤してきます。
色んなヤツが働いていました。全員は紹介できませんが、印象に残っているのは、
優しいM元チーフと融通の利かない二番手のM平さん、高校生でメインアルバイト
のM村君でしょうか。( やっぱ長くなりますので、個々のネタは次回 ・・・ )

こうして、私の大阪における飲食店(飲食業界)での仕事が始まりました。
それは、人生を大きく変える出来事の始まりであったかもしれません。また、
大きく人生に影響を与える人との出会いや別れの始まりでもあった気がします。
いずれにせよ、この業界で仕事をする限り、昭和に出会った忘れること消すこと
のできないお店とスタッフです。



昨夜、家に帰ってテレビをつけた瞬間、この店舗情報の映像が ・・・

当時、高校生3年生で制服を着たまま学校帰りにアルバイトに来ていた
M村君( 「リストランテ・マツムラ」 オーナー 松村 和彦 )のお店が紹介され、
本人が料理を語っていました( ちょっと、太ったんちゃう ・・・ )。今でも連絡を
取り合っている当時のスタッフの一人ですが、やはり、この業界で元気に活躍して
くれている姿を見ると嬉しいものです。まあ、M村君(まっちゃん)のお店は、
「二升五合」 枠で今度ちゃんと紹介しようと思います。


「昭和懐古」

関わった店やスタッフは皆、当時のままの姿と動きなのです。
私のベースはここにあります。M元チーフにもう一度会いたい ・・・

第五大成丸


 
 


感謝。

2008年04月29日 | こんたく堵


昔、
人に 感謝 する気持ちを言葉で伝えるのは
好きな女子に街で偶然出会うのと同じくらい面映かった。

たぶん ・・・


     


今も、
ストレートに言葉で 感謝 を伝えられるような人間やない。

ただ、
ちょっとだけ アタマ で解ってきた気がする。
ちょっとだけ カラダ に沁みてきた気もする。

たぶん ・・・

出会った人 みんなに
理屈やのうて 素直に

・・・ 感謝。