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人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --鶴岡八幡宮 余話➀--

2022-12-14 19:16:52 | 日記

あいにくの雨でしたが、11月23日(水)に開催された鶴岡八幡宮の吉田茂穂宮司の講演会に行ってきました。滅多に聞くことができない吉田宮司の講演であり、その一部を紹介させていただきます。写真は七五三に来た親子。柳原神池の橋上に佇むその姿が美しく、思わず一枚写しました。

さて全国に神社は八万社あるそうで、そのほとんどは詳細な記録はないのですが、この鶴岡八幡宮に限っては『吾妻鏡』などに詳細な記録が記されています。平安時代末期に二つの大きな戦がありました。ご存じ保元の乱と平治の乱です。その当時の武士(源氏と平氏)は朝廷や貴族のもとで働くガードマンでしかありませんでしたが、それでも武士は徐々に力をつけていきます。平治の乱後は平清盛ひきいる平氏が全盛期をむかえ、「平氏にあらずんば人にあらず」時代です。その後に源頼朝が本格的な武家政権を鎌倉に確立することになります。ではなぜに鎌倉かということですが、かなり遡りますが、大和朝廷の時代に大和と奥州の蝦夷が対立していました。その代表格が安倍氏でした。これは余談ですが、この安倍氏は先日殺害された元安倍総理の祖先だったようで、安倍さんは敵であったこの八幡宮には一度もきませんでした。この安倍氏を討ったのが頼朝の祖先である源頼義で、この奥州攻めの前線基地である鎌倉から出陣しました。この戦が前九年の役で、源頼義はその戦勝のお礼に由比若宮(元八幡)を建立したわけです。その子源義家も後三年の役の際に元八幡を修復しています。

源氏の館は今の寿福寺あたりにあったようで、その寿福寺はのちに栄西が建てたのですが、なにかとこの鶴岡八幡宮とは関係が深く、廃仏希釈のときには境内にあった仁王像が寿福寺にいっています。八幡宮はもとは神仏が習合しており、そのトップは別当といい、お寺の僧侶でした。八幡宮のお宝も散逸し、愛染明王像は五島美術館に、お経などは浅草の浅草寺に、境内の仏教関係の建物はすべて壊されました。いま思えば非常に残念なことをしました。

源頼朝は石橋山の戦いに敗れ、千葉に逃れましたが、その年の10月には鎌倉入りし、はじめに元八幡をこの地に遷宮し、八幡宮を「天主の住い」の代わりにみたてました。のちに実朝は朝廷儀式を八幡宮で行い、京都からの書類は大倉御所ではなく、八幡宮でかわりに扱ったようです。また頼家の安産祈願で若宮大路を造りました。京都の朱雀大路にも段葛はありますが、こちらは身分の高い人しか歩けなかったのですが、鎌倉は誰でも通れるようにしました。養和二年(1182)に完成した街の背骨の通りです。頼朝の旗上げを歓迎したのは三浦義澄と千葉常胤でしょうか。もともと平氏の流れをくむ二人ですが、平清盛の貴族化に落胆し、反旗をひるがえして頼朝を担いだわけです。しとどの窟屋でわざと頼朝を見逃した梶原景時も同じです。頼朝が八幡宮を建てたのは源氏の棟梁であることを正当化するのが狙いでした。

余話②に続く

 

 

 

 

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