人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --承久の乱 宇治川の戦い--

2022-09-11 18:35:05 | 日記

8月29日から31日まで三泊四日で京都・奈良・高野山を旅しました。こういった旅行は思い立ったら吉日、あれこれ考えないで出かけるのが正解です。幸い台風11号の影響もなく、ほぼ計画通りの取材旅行ができました。初日は宇治と奈良を目指します。新幹線で京都まで行き、そこから奈良線に乗換え、みやこ路快速で宇治まで行きます。小田原発8:07発のひかりに乗り、JR西日本宇治駅に着いたのは11時頃。今回の旅の一番の目的地、宇治橋まで急ぎます。今月末に北条泰時の講座が控えていますので、まず宇治川の戦いの地を確認しなくてはなりません。

先日、NHKで泰時の宇治川の戦いを、ジュリアス・シーザーのルビコン川越えの話と重ねて解説していました。シーザーがヨーロッパ遠征から戻り、武装してルビコン川を渡る決断をしたのと、承久の戦いで泰時は後鳥羽上皇引きいる朝廷軍に戦いを挑んだのを重ねたようです。タブーを破る。まさに決死の気持ちで増水した宇治川を渡ったと思います。『吾妻鏡』や『承久記』に詳しくその様子が書かれていますが、その場にいた泰時の気持ちは言葉では言い尽くせないものがあったはずです。

承久三年(1221)6月14日(太陽暦7月5日)。前日の宇治橋の戦いでは敵の守りが固く、抜け駆けした足利義氏や三浦義村らは散々の目にあい、平等院に逃げ込み、後から来た泰時の本軍と合流しました。結局、宇治橋を渡るのを諦め、濁流の河を渡ることになりますが、この渡河で多くの犠牲者を出してしまいました。大将の泰時もパニック状態。まず息子の時氏に命じますが、いよいよ命運つきたか、泰時自ら河を渡ると言い出す始末。そこは一計を案じた家臣に止められますが、それほどにこの渡河作戦は苦労したようです。結局、筏に乗り宇治川を渡ることができました。

写真は宇治橋の下流の渡河地点と推定される場所から京都方面を写したものです。ちょうど正面の京阪宇治駅あたりと何かに書いてありました。実際にみると川幅は結構あり、まして増水した時ならどれほど困難な作戦だったか想像できます。やはり百聞は一見に如かず。現地でみてはじめて泰時の動揺が理解出来ました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする