人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

甲斐の旅 ーー 乾徳山 恵林寺 ーー

2017-09-03 15:06:27 | 日記

恵林寺は放光寺に隣接しており歩いて行けます。黒門、四脚門(赤門)、三門に至る参道は長く続き、武田信玄の菩提寺となる臨済宗妙心寺派の古刹です。もとは夢窓国師によって1330年に開かれ、当時の領主二階堂道蘊が創建しました。そして時代は下り、1582年の織田徳川連合軍の甲州攻めの武田氏滅亡時には、寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)等を匿い、引き渡しを拒否したことで、織田信長の怒りを買い、快川和尚ら約百人の僧侶が三門に閉じ込められ焼打ちにあうという事件がありました。この時、快川和尚が燃える三門の上で『碧巌録』の偈を発しましたが、その偈が三門の扁額に掲示されています。

 安禅不必須山水 滅却心頭火自涼 (安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し)

この「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という言葉はなんとなく記憶にありますが、いわれについては知りませんでした。現在の三門は百人を閉じ込めるには小さすぎます。再建前は京都妙心寺の三門位の大きさはあったと思います。イメージしたい方は本ブログ2016年6月6日の記事をご覧ください。

そして明王殿の「武田不動尊」を拝観。武田信玄が京都より仏師を招き対面で模刻させた像で、信玄生前の制作であることから信玄生不動と呼ばれているようです。眼光鋭く、拝観してみると信玄公はこんな顔・姿だったかもしれないと納得した次第です。

明王院の裏には信玄の墓と家臣の供養塔と柳沢吉保公の墓所があります。柳沢吉保は5代将軍徳川綱吉の時の側近政治であまり良いイメージはありませんが、ここ甲斐の国では信玄公の遺徳を守った後継者として尊敬されているようです。また吉良上野介も地元では善政を行った領主のようですし、どうも忠臣蔵の世界は良くわかりません。口は災いのもと。地元での言動は注意しないといけません。甲州市のガイドさんから学んだ教訓です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲斐の旅 ーー 放光寺 ーー

2017-09-03 05:56:50 | 日記

8月30日。鎌倉ガイド仲間の旅行で山梨県甲州市にある放光寺に行ってきました。山号は高橋山(こうぎょうさん)、真言宗のお寺。新羅三郎義光の孫で甲斐源氏安田遠江守義定の創建(1184年)になります。新羅三郎義光は源頼義の三男。鎌倉大町の八雲神社は義光が京都祇園社の祭神を勧請したと伝わっています。そして甲斐の国と源氏のつながりは義光の子 義清が常陸の国から移り住み、その子孫が甲府盆地一帯に本拠を築いたことからはじまります。平家討伐の初期には源頼朝、木曽義仲とも並列にあった甲斐源氏一族ですが、その後は頼朝派、義仲派、独立派に分かれ戦い、義仲派だった安田氏は頼朝の覇権確立後に謀叛の罪を被せられ滅ぼされました。

この寺の見どころは安田義定が京都より移した三体の仏像(大日如来坐像、天弓愛染明王坐像、不動明王坐像)です。山門の金剛力士立像とあわせ国重文になっています。この放光寺は武田信玄亡き後は織田信長に攻められ焼失していますが、これらの仏さまは台座から外され持ち出され、焼けることなく奇跡的に現代まで残されました。特に天に矢を放つ姿の天弓愛染明王坐像は凛として素晴らしく、仏さまを救った人たちの信玄公への思いと重なり、暫し時忘れ拝観させていただきました。甲斐の山々を借景とし寺域も広く、鎌倉市内とは違った寺めぐりができました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする