アタマの活性化も兼ねて、金・土とシンポジウム聞いてきました。
枠組みは[ケータイ」ってだけで、かなり広範な内容のシンポジウムです。
2つのセッションに興味があったのですが、内容に明暗分かれました。
1つめ:ケータイの需要構造についてのお話。
ものすごーく簡単に言うと、
『製品のアーキテクチャはオープン・モジュール化が進んでいる→
IT産業はPCのようにオープン・モジュール化の流れが圧勝→
調査によるとユーザ側も先進ユーザにはモジュール化ニーズが強い。
ただし、リテラシーの低いユーザはクローズ型維持が有効』
以上。
うーん。ちょっとおかしい、この議論。
まず、エンジニアリングにおけるオープン・モジュール化と、ユーザから
見たときのオープン・モジュール化が完全にごっちゃになってるんですけど。
製品開発で言えば、オープン・モジュール化はこれからも進むでしょ、当然。
これはユーザには全く関係なく。今、ケータイ業界で進行している「製品開発」の
オープン・モジュール化は、完全にサプライサイドの話だもん。
でも、それとPCのようなオープン・モジュール化とはぜんぜん別の話じゃん。
これは、ユーザが求めるかどうかの話。
もうひとつ、ケータイのユーザに対するオープン化が進むかどうかどうかの
議論で、ビジネスと技術でしか議論が行われていない。
オープン化による弊害として、リテラシーの高低によるディジタルデバイドが
必ず発生するはずだけど、その辺の話が全く出てこないのはなんで?
社会を研究しているわけですから、売れりゃいいってもんじゃないでしょう。
2つめ:モバイルメディアが作り出す「場」のお話。
これも、ものすごーく簡単に言うと、
『コミュニケーション空間として、プライベート/コマーシャルの各両端の空間の
間のどこかに、モバイルコミュニケーション空間が位置すると思うのです。
で、これをデザインできないだろうか?』
これは去年のシンポジウムで興味を持ったプロジェクトの継続報告。
この研究者自体は、メディア論を中心に研究しているのだけど、ちょっとその
内容は広範すぎるので、モバイルメディアに的を絞っているこの報告はちょうどいい。
ある報告者は、ワークショップの実践を元にして、ケータイの特性を以下の3つ
あげてました。
・移動性
・日常性
・低精細度性
一番上は言わずもがな。
2つ目は、自分の日常を写した画像がメモリ上に残ってるとかが具体例。
3つ目は、マクルーハンの言う「ホットなメディア/クールなメディア」での
『クールなメディア』のこと(詳細割愛)。
どれもとくに意外な結果ではなく、ま、『そうですよね』という話ですが、
実践を通じて得られた結果ということが重要ですね。
去年の時点だと、試行錯誤な感じのワークショップ報告とかもあって、
どういう方向に進んでいくのか不安なところもありましたが、今年は
「場」をデザインしていくだけの材料が集まりつつある感じがしました。
この人たちの研究はもうちょっと知ってみたい。
ここしばらく、まじめな話がつづいちゃってるなー。
ちょっとまずい。
心入れ替えて、もうすこし別の話題を探してみます。
今日は参りました。
いつものように出社して、で、PC立ち上げたわけですよ。
したら、WinXPの画面がでてすぐ、また起動画面へ...。
や、ヤバイ。
HDD吹っ飛んでるかも...。
HDD認識はしてるけど、CD-ROMで立ち上げてみたら、
Dirとかファイルをぜんぜん認識していないのです。
ガーン。まさか再フォーマットしか道は無いの???
いろいろ周りに助けてもらって、結局はCHKDSKでなんとか
リカバリできたのですが、ほんっと焦った。
結局、夕方まで仕事になりませんでした。
思い返せば、ちょうど8年前、全く同じ状況だったなぁ。
あれは修論作成追い込みの時期。9割ぐらい書き上げてて
あとはまとめを書く段階でした。
夜勤バイトを終えて、バイト先のあまりものドーナッツを食べながら
PC起動すると、いきなりSad MACが(学生のときはMACだったのです)!!
...。ガーン。
バックアップは3割作成済みぐらいのファイルしかない。
しかも一次提出期限は3日後。
とりあえず教授にTELして、提出期限間に合わないかも宣言しましたよ。
このときも、いろいろ周りに助けてもらって、最終的にはMACで
ぶっ壊れたときの定番Norton先生で1回だけHDDマウントに成功して、
なんとかファイル復旧できました。
あのとき、ファイル復旧できてなかったら、どうなってたんだろう?
今考えても恐ろしい。
ちなみに、今日のBlogタイトルは、そのときの修論タイトルです。
この本、まだ読み終わってません。
思った以上に時間がかかってしまって。
というのも、9人の作家のインタビューなんですが、
村上春樹を除く8人はアメリカな人たちで、
しかも左ページには英語、右ページには和訳という
『ついでに英語も勉強したまえ』方式な本なのです。
和訳中心に読みながらちょっと英語見て、という読み方でも
めちゃめちゃ時間かかる。
最終章の村上春樹を1とすると、他は5~10ぐらいかかります。
英語読むのなんて、数年前のTOEIC以来ですよ、まったく、もう。
さて、今回は村上春樹部分だけの感想にします。
今日の感想はかなーり青臭い感じになります。
ほんとパンキョウ1~2年生のノリです。
このBlogの題名通りでいっちゃいます。
あー、もう後には戻れない...。
~~~ここから青臭い感じ開始~~~
以前の「翻訳夜話」では、文体等の話が主だったですが、
ここでは、小説というシステムや、その物語性について
かなり具体的に触れてます。
これまでは、普段語ったりしない内容ですね。
そしてこれらの内容を、村上春樹が自己の意識下で明確に
語れるようになったことが、自分が村上春樹への興味を失っていく
ことになったことと、繋がっているような気がします。
「ねじまき鳥~」には、意識の上にまで上がってこない、
でも確実にある、ある感覚、それらを小説という媒体を
使って、ギリギリ意識の上にまで持ち上げてくる感じがある。
自分の中では、これこそが小説でしか表現し得ないことだと
思っています。
でも、以降の小説だと、明確に意識下にある、いわば記号化された
言葉を、ぼこっと使ってるような気がしてしょうがない。
『要するに~なわけです』と、説明されているような。
その時点で、表現が小説である必然性は薄いのです。
それなら評論読んだほうがいい。
小説の解体やら再構築だとか、相対主義・ポストモダンを超えた
人間性の再獲得だとか、そんなことは評論家が言っていればいい話で、
小説家自身には、語ってほしくないのです。
もちろん、これらのことが分かっていない小説家は、今の時代に
存在する価値はあまりないと思います。
このテーマを避けて、今、小説を組み立てることは不可避ななず。
でも、これらのことを評論的・意識的に語ることは、この本質から
逆に乖離していくことになってしまう気がするのです。
以降、個人的な感想なんですが(これまでも充分個人的な感想だけれけど)、
やはり男性作家は、文壇から限りなく遠ざかっている村上春樹ですら、
「文学の歴史を正しい方向に継承しよう」という自負があるんじゃないかと
思います。
この本だと、村上春樹やリチャード・パワーズにそれを強く感じます。
そして、そこにどうしても違和感を感じてしまう。
記号として機能してしまうほどの強い言葉で物事を語ってしまうことに
なぜ躊躇しないんだろう?
「要するに~」と語ってしまうことは、それまでの小説で伝えてきたものを
あっという間に、よく似ているんだけど、でも全く別のものに置き換えて
しまうことになってしまうのでは?
意識しているかどうかは別として、それらのことを絶対に口にしない
女流作家、この本の中だとシリ・ハストヴェットとかに、僕としては
シンパシーを覚えます。
やはり、「歴史=ジェンダーとしての男性性」ということに繋がるのか?
最近男性作家が読みづらい理由は、案外ここにあるのかもしれません。
なんか、無駄にヘンなもの背負ってる感じがするのです。村上春樹と同じく
文壇と呼ばれるものから遠いと思われる町田康ですら。