夜明け前午前5時

徹夜明けの思いつきレベルな発想を、推敲なしでお届け

ナイン・インタビューズ

2006-03-02 01:36:10 | 本:その他

この、まだ読み終わってません。
思った以上に時間がかかってしまって。

というのも、9人の作家のインタビューなんですが、
村上春樹を除く8人はアメリカな人たちで、
しかも左ページには英語、右ページには和訳という
『ついでに英語も勉強したまえ』方式な本なのです。

和訳中心に読みながらちょっと英語見て、という読み方でも
めちゃめちゃ時間かかる。
最終章の村上春樹を1とすると、他は5~10ぐらいかかります。

英語読むのなんて、数年前のTOEIC以来ですよ、まったく、もう。


さて、今回は村上春樹部分だけの感想にします。
今日の感想はかなーり青臭い感じになります。
ほんとパンキョウ1~2年生のノリです。
このBlogの題名通りでいっちゃいます。
あー、もう後には戻れない...。

~~~ここから青臭い感じ開始~~~

以前の「翻訳夜話」では、文体等の話が主だったですが、
ここでは、小説というシステムや、その物語性について
かなり具体的に触れてます。
これまでは、普段語ったりしない内容ですね。

そしてこれらの内容を、村上春樹が自己の意識下で明確に
語れるようになったことが、自分が村上春樹への興味を失っていく
ことになったことと、繋がっているような気がします。


「ねじまき鳥~」には、意識の上にまで上がってこない、
でも確実にある、ある感覚、それらを小説という媒体を
使って、ギリギリ意識の上にまで持ち上げてくる感じがある。

自分の中では、これこそが小説でしか表現し得ないことだと
思っています。


でも、以降の小説だと、明確に意識下にある、いわば記号化された
言葉を、ぼこっと使ってるような気がしてしょうがない。
『要するに~なわけです』と、説明されているような。

その時点で、表現が小説である必然性は薄いのです。
それなら評論読んだほうがいい。

小説の解体やら再構築だとか、相対主義・ポストモダンを超えた
人間性の再獲得だとか、そんなことは評論家が言っていればいい話で、
小説家自身には、語ってほしくないのです。

もちろん、これらのことが分かっていない小説家は、今の時代に
存在する価値はあまりないと思います。
このテーマを避けて、今、小説を組み立てることは不可避ななず。

でも、これらのことを評論的・意識的に語ることは、この本質から
逆に乖離していくことになってしまう気がするのです。

以降、個人的な感想なんですが(これまでも充分個人的な感想だけれけど)、
やはり男性作家は、文壇から限りなく遠ざかっている村上春樹ですら、
「文学の歴史を正しい方向に継承しよう」という自負があるんじゃないかと
思います。
この本だと、村上春樹やリチャード・パワーズにそれを強く感じます。
そして、そこにどうしても違和感を感じてしまう。

記号として機能してしまうほどの強い言葉で物事を語ってしまうことに
なぜ躊躇しないんだろう?
「要するに~」と語ってしまうことは、それまでの小説で伝えてきたものを
あっという間に、よく似ているんだけど、でも全く別のものに置き換えて
しまうことになってしまうのでは?


意識しているかどうかは別として、それらのことを絶対に口にしない
女流作家、この本の中だとシリ・ハストヴェットとかに、僕としては
シンパシーを覚えます。

やはり、「歴史=ジェンダーとしての男性性」ということに繋がるのか?

最近男性作家が読みづらい理由は、案外ここにあるのかもしれません。
なんか、無駄にヘンなもの背負ってる感じがするのです。村上春樹と同じく
文壇と呼ばれるものから遠いと思われる町田康ですら。