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家庭教師

2017-02-27 14:09:53 | 団塊の世代
昔は大学生のアルバイトと言えば、
家庭教師
が多かった。というか、
一番コスパがよかった?
受験生でない高校1・2年生、中学生が多かったかな?

週2回、各回2時間程度が標準で月5千円程度の報酬だった。
大学受験の高校3年生、高校受験の中学3年生だともう少し色がついていた。
学生の生活レベルであれば、1万5千円程度ひと月の生活がおくれていた。
中には2つ、3つやる者もいた。

親との面接で、片手を出されて、「これでいいですか?」と尋ねられ、
上記の通り5千円は標準的な報酬なので「かまいません」と答えたら、
ひと月の最後にもらった報酬が5万円だったという話を聞いたこともある。
これは本当にあったのかな?都市伝説かな?

私がやった家庭教師の変わり種は「大学生の家庭教師」である。
昔は大学4年のうち、最初の1~2年は教養教育が必須で、
その中で単位がとりにくい?勉強が必要?なのが、「語学(英語)」と、
理工系学部であれば「数学」と言われていた。

理工系学部の学生の中に大学の数学の講義についていけないというのも珍しいことではなかった。
それでもほとんどは卒業していくんですがね。
中には本気に心配する親もいて、頼まれて某大学の工学部の1年生の数学の家庭教師をした。
まじめな大学生で勉強する気はあるのだが、授業中にわからないところを挙手して質問するほどの
勇気が無い?ので、家庭教師とはいっても実質は質問を受けて、それにやさしく解説するのが仕事だった。

家庭教師は自分の都合で決められた日(曜日)に行けない場合は、代わりの日(曜日)を設定するのが普通であるが、
別の曜日に行くのも難しかったので、最初から、私の都合で行けなくても代わりの日は設定しない。
その代わり、4回やったら報酬1万円ということにしてもらった。

月日は流れ、現在は
塾全盛の時代ですね。

家庭教師の求人はガタ減りし、
家庭教師を求める人は、塾に行くのが不便な所に住んでいる人が多くなった。
その不便な場所に行くには車・バイクが必要なことが多い。
それらを持っていないとコスパに優れている家庭教師の口を探すのもままならぬ。

現在の家庭教師の報酬はどの程度何でしょう?

お題「寝台列車に乗ったことある?」

2017-02-26 12:23:33 | 団塊の世代
若いころには福岡に住んでいたので、新幹線が東京・新大阪間で走り出すまでは、東京へ行こうとすれば寝台列車が当然。それもいわゆるブルトレ(特急)ではなく急行列車の寝台利用。その寝台も取れずに、座席で我慢することも普通だった。

ブルトレ、2段式の電車寝台、急行の寝台列車についてはすでに記事も集まっているようなので、省略し、ここでは普通列車の寝台の経験をお披露目しよう。

九州管内で門司港から日豊線経由で西鹿児島(多分、終着駅は正確には覚えていない)行の夜行鈍行に寝台車が1両だけ連結されていた。
夜の10時頃に出発し、宮崎に朝の6時頃に到着。
鈍行とはいっても夜行列車では止まらない駅もありましたね。
寝台車は当然、2等の3段式。
(A寝台、B寝台っていつからですかね、その前は1等、2等でしたよね)
2等の3段式は急行列車の寝台車両でも普通に使われていたので、内部は急行と変わらない。ただ、普通列車に接続されているのは急行列車で使い古した車両のような感じだった。

若かったので、3段式では上段が好きだった。
上段は窮屈に感じるかもしれないが、荷物置き場と境がなく、寝た時の頭の上(水平方向の意味)にゆとりがあった。その意味では中段がいいとこ無しで嫌いだった。

寝台料金って幾らだったんでしょう?
記録はありませんが、同じ時期に大阪・富山間の急行寝台(急行料金+寝台料金)が1500円という記録が残っています。普通寝台だったら?

最期に寝台車に乗ったのは何時でしょう?
忘却の彼方ですね。

といいつつ、東京と特急寝台が繋がっている処に現在住んでいるので、
近いうちに数十年ぶりの寝台列車を体験しそうです。

摂氏5度

2017-02-13 00:26:56 | 団塊の世代
九州は暖かいというイメージがあるのか?小学校から、中学、高校と学校にはエアコンどころか、暖房の設備は無かった。
博多は九州でも玄界灘に面しており、日本海側の気候に近く、冬は大陸からの冷たい「玄海おろし」が吹くことも多かった。

小学校では(中学でも?)授業が終わると、帰りの会が終わって教室の掃除。掃除は拭き掃除もありますね。冬になると水が冷たい! 昔は栄養状態も今ほどよくなかったので、しもやけの子も珍しくなかった。
小学生冬の拭き掃除は嫌でしたね。

それが気温5度以下のときは拭き掃除をしなくてよいという決まり?で、寒いときには部屋の温度計に一喜一憂したものだ。ちなみに教室の気温が3度ということもあり、暖房がない教室では先生の号令のもと、天突き運動で体を温めて、授業を続けていた。

中学はよく覚えていないが、高校に入ると拭き掃除がなくなりホットしたものだ。
大学に入ると、エアコンは無かったが、暖房があった。

下宿、間借り、アパート

2017-02-12 23:54:34 | 団塊の世代
団塊の世代の学生時代の住居と言えば、下宿か間借り。

下宿は賄い(食事)付き、間借りは部屋だけで食事なし。
当然、洗面所、トイレは共同。部屋に水道・流しは無し。
共同の炊事場がある所もあったが、それは珍しい方だったので、
自炊は基本的にできない。

大家の一室、ないしは2階の数部屋を部屋ごとに別の学生が借りているという状態で、風呂があったり、無かったり。風呂があっても毎日ではなく、一日おき程度が多かった。まあ、近くの銭湯にタオル・石鹸を持って出かけるのが普通だった。

自室用の玄関、部屋の中に水道・流し・ガスがある「アパート」もあったようだが、学生で済んでいる者は皆無に等しかった。アパートでもトイレは共同という所もあったし、風呂はない方が普通だった。

電話はまだ各家庭に普及している時代ではなかった。
普通の家庭では電電公社に申し込んでも半年から一年ほど待たされる時代だった。
ので、大家に電話が無いことも珍しくなかった。
大家に電話があっても、それを下宿の住人に使わせる(発信)所はほとんどなかった。(緊急時は使わせてもらえるようでしたが、日常はダメ)。市内電話は10円で話し放題だったが、市外電話は高かった。
受信については大家が呼びに来てくるところもあった。
このため緊急の連絡は電報だった。

向こう三軒、両隣

2017-02-07 01:34:27 | 団塊の世代
団塊の世代がどれだけ多かったか?って

家の周りにどれだけ同期生(同じ学年の仲間)が居たか考えるとわかりやすいかな?
右隣には同期生(女)、その右は川で家無し、
左隣には一期上(男)、その隣には同期生(男)、その隣にも同期生(女)
向かい側
正面右側に同期生(男)、正面は2軒分の大きな家でそこの子は団塊の世代より年上だった。
という感じで、同期生がうじょうじょ居た。

友人の家に遊びに行ったら、友人を含め、
並びの4軒、向かいの3軒に男の同期生がいて、
遊びに行った私を含め8人があれやこれや言う前に集まって野球(三角ベース)が始まった。
これには私もびっくりしたことを覚えている。

テレビ・ラジオ

2017-02-03 15:13:53 | 団塊の世代
テレビが我が家にやってきたのが小6のころ?。
それまではメディアと言えば、ラジオだけ。

さすがに「君の名は」は聞いていなかったが、
 笛吹童子~ひゃらあり、ひゃらりこ、ひゃりーこ、ひゃられーろ・・・(放送期間1953年1月5日~12月31日?)
 赤胴鈴の介
 一丁目一番地
あたりから
 ラドン(なかなか情報が見つからない!)


白黒テレビ時代の番組で記憶しているものはあまりない。
 高校2年のときに東京オリンピック程度であろうか?
どちらかというとスポーツ嫌いの傾向もあり、東京オリンピックもあまり熱心には見ていなかった。

カラーテレビは結構早く我が家にやってきた。
浪人するか、金のかかる私学に進学するかと思っていた次男坊(わたしのこと)が現役で地元の国立大学に入学が決まり、私学の入学金・授業料として準備していた学資が不要となり、喜んだ父親が誰にも相談せずに注文したカラーテレビが突然やってきた。

大学1年が終わった時、父の転勤とともにカラーテレビは親と一緒に行ってしまい、小6の時の白黒テレビが私の4畳半の下宿に残されていった。
当時は学生の下宿にテレビを持っている者は皆無に近かった時代である。

保育園・幼稚園

2017-02-01 23:03:44 | 団塊の世代
団塊の世代で保育園・幼稚園に行っていた者はどの程度何だろう。

当時は専業主婦が圧倒的であり、私の母もそうだった。
会社の社宅(木造平屋)に住んでいたこともあり、団塊の世代である、
周りの社宅には同じ年がごろごろ、±1歳までいれると、それこそ雨後の筍、
履いて捨てるほどいた。そんな仲間と朝から夕方まで外で走り回っていた幼児時代。
保育園・幼稚園に行っている者は周りにはいなかった。

小学校に入る前の年の7月末頃に親の転勤で福岡に移った。
現在は九州新幹線で1時間半ほどらしいが、当時は蒸気機関車SLの夜行列車で、
博多に着いたのは雨の朝だった。
一か月ほどは社宅が空くのを待って仮住まい。
8月間tに鳥飼の社宅に入った。

社宅であるが以前とは違い、3戸のみ、うち1戸は関連会社のものだった。
隣には1歳年上の男の子と少し大きなお姉さんがいた。別の隣(関連会社)には
もっと大きなお姉さんが二人か三人かいた。
同い年はいなかった。いわゆる隣組には沢山いたのですが両隣の社宅はこんな感じだった。

小学校入学まで半年余りということで、幼稚園に行くこともなく、何して過ごしていたのでしょう?

翌年の4月、子供の足で10数分の所にある鳥飼小学校へ入学。
団塊の世代の一期生が学童になった年である。

友達もできて(あまり覚えていないのですがね)普通に過ごしていたある時、
「幼稚園の同窓会」とかいう話を仲間の中で話しているのが聴こえてきた。
なんと仲間の多くは小学校に入る前に幼稚園というものに通っていたということを初めて知った。
当然ですが、その幼稚園の同窓会の日は一人ぼっちになってしまった。うらやましかった!

幼稚園ってどんな所だったんだろう!?

2部授業

2017-02-01 17:01:44 | 団塊の世代


・・・四年生だけがこの旧制中学校の校舎で授業を受けた。それも早番(はやばん)、遅番(おそばん)の二組に分かれた二部授業である。
二部授業という言葉を知っている人も今日では少ないであろう。戦後の、それも都会で生じた現象 だった。遅番組は早番組が給食を食べている頃に登校して、よだれを垂らして廊下で待つのである。
脱脂粉乳のミルクとコッペパンとマーガリンの三点セット に、おかずは一品ほどの給食だった。それでもまだ当時は食糧事情が良くなかったので、窓越しに早番組が給食を食べているのを待ち遠しそうに眺めていた。
(瀬戸 武彦  (ドイツ文学) のエッセイより)



3年生まで1学期は2部授業だった。
 早番は1時限目~3時限目+給食で帰宅
 遅番は給食+4時限目~6時限目
これが隔週で入れ替わったのかな?そこはよく覚えていない。

夏休みの間に突貫工事で木造2階建ての校舎増設が終わり、2学期3学期はは解消されていた。
4年生では別の記事に書いたように、学区再編成、新しい小学校の設置があり、2部授業は解消された。
それでもクラスメートは57人、何クラスあったんだろう?

小学校の担任の先生、7人!

2017-02-01 14:59:55 | 団塊の世代
小学校が6年間であることは、団塊の世代も、現在の平成の子でも同じである。
最近だと、クラス替えが3年生なるときと、5年生になるときの2回が多いと聞いている。
すなわち、1・2年は同じ仲間で、担任の先生も同じ、3・4年も同様、そして5・6年も。
ということで、親の都合で転校しなければ、6年間の担任の先生は3人程度。
運がよければ、クラス替えはあっても前の学年と同じ先生のクラスになることもあり、そうすれば6年間の担任の先生は少なくなる。

私の場合、運が悪かったんでしょうね?
転校もせずに同じ鳥飼小学校に6年間通ったのに、担任の先生は7人なってしまった。
鳥飼小学校自体が昭和27年に草ヶ江小学校から分離してできたばかりの新設校だったが、その後も戦後の引き上げ?なのか、学期ごとに転入生が続々と続き、当時の学級定員(何人だったのでしょう?)を超えてしまい、2年生になるときに学年のクラス数が増えることになってしまい、普通であればクラス替えがない1年生から2年生になるときクラス替えがあった。不運にも?1年のときの担任の釈迦野?先生のクラスには入れなかった。
さらに(このあたりは記憶が曖昧な所もありますが)運が悪く?、クラスが増えても先生が足りない!!!なんてこともあったのか、1学期だけ別の先生になってしまい、夏休み明けの2学期から正規の平井先生が着任して担任をしてもらった。これで3人。

2年から3年になるときは、普通通りクラス替えがあり、またしても担任はかわり、別の記事に載せたクラス写真の笠先生が担任となった。

3年から4年になるとき、クラス替えがあったかどうか?4年のときのクラス写真で確かめてみなくては・・・
写真がどこに行ったか・・・・
手元にあるデータによると、クラス写真に写っているクラスメートの人数が
 小2 57名
 小3 65名
 小4 57名
 小6 55名
となっており、また一クラス増えたのか?クラス替えがあったようでもある。いずれにしろ担任の先生は変わってしまった。
4年生の2学期から、隣の当仁小学校が母体になり、南当仁小学校を分離することに伴い、校区が変更になり、鳥飼小学校の校区の一部が南当仁小学校の校区に編入された。その連中は2学期から新しい南当仁小学校に通うことになるので、このクラス替えで前もって、その連中のクラスができたことを記憶している。

現在、鳥飼小学校は「城南区」にあるが、「鳥飼」という町(地区)は中央区と、城南区にまたがっており、すべてが鳥飼小学校の校区だった。それがこのとき、鳥飼であっても、鳥飼小学校と南当仁小学校とに分割されてしまった。

さらに、鳥飼小学校から南当仁小学校へ編入されてしまった地区の一部は、2学期から南当仁ひ移らず、鳥飼小学校で卒業することが許されてた。
住んでいたのがその特殊な場所で、南当仁小学校へ移ることなく、鳥飼小学校に残留することにした。

2学期からクラスが減り少しさみしくなった。

4年から5年になるときは当然、クラス替えがあり、担任も変わった。
この頃になると、担任が変わるのには慣れてしまった。

5年から6年になるときはクラス替えもなく、普通は担任も変わらないものだ。他のクラスはそうだった。
なのに、何故か?私のいた1組だけは担任が変わってしまった。5年のときの担任が他校へ転勤だったのかな?

ということで、2年のときの1学期と2・3学期で担任が変わったことを含め、合計7人の先生に担任をしていただくことになってしまった。