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保育園・幼稚園

2017-02-01 23:03:44 | 団塊の世代
団塊の世代で保育園・幼稚園に行っていた者はどの程度何だろう。

当時は専業主婦が圧倒的であり、私の母もそうだった。
会社の社宅(木造平屋)に住んでいたこともあり、団塊の世代である、
周りの社宅には同じ年がごろごろ、±1歳までいれると、それこそ雨後の筍、
履いて捨てるほどいた。そんな仲間と朝から夕方まで外で走り回っていた幼児時代。
保育園・幼稚園に行っている者は周りにはいなかった。

小学校に入る前の年の7月末頃に親の転勤で福岡に移った。
現在は九州新幹線で1時間半ほどらしいが、当時は蒸気機関車SLの夜行列車で、
博多に着いたのは雨の朝だった。
一か月ほどは社宅が空くのを待って仮住まい。
8月間tに鳥飼の社宅に入った。

社宅であるが以前とは違い、3戸のみ、うち1戸は関連会社のものだった。
隣には1歳年上の男の子と少し大きなお姉さんがいた。別の隣(関連会社)には
もっと大きなお姉さんが二人か三人かいた。
同い年はいなかった。いわゆる隣組には沢山いたのですが両隣の社宅はこんな感じだった。

小学校入学まで半年余りということで、幼稚園に行くこともなく、何して過ごしていたのでしょう?

翌年の4月、子供の足で10数分の所にある鳥飼小学校へ入学。
団塊の世代の一期生が学童になった年である。

友達もできて(あまり覚えていないのですがね)普通に過ごしていたある時、
「幼稚園の同窓会」とかいう話を仲間の中で話しているのが聴こえてきた。
なんと仲間の多くは小学校に入る前に幼稚園というものに通っていたということを初めて知った。
当然ですが、その幼稚園の同窓会の日は一人ぼっちになってしまった。うらやましかった!

幼稚園ってどんな所だったんだろう!?

2部授業

2017-02-01 17:01:44 | 団塊の世代


・・・四年生だけがこの旧制中学校の校舎で授業を受けた。それも早番(はやばん)、遅番(おそばん)の二組に分かれた二部授業である。
二部授業という言葉を知っている人も今日では少ないであろう。戦後の、それも都会で生じた現象 だった。遅番組は早番組が給食を食べている頃に登校して、よだれを垂らして廊下で待つのである。
脱脂粉乳のミルクとコッペパンとマーガリンの三点セット に、おかずは一品ほどの給食だった。それでもまだ当時は食糧事情が良くなかったので、窓越しに早番組が給食を食べているのを待ち遠しそうに眺めていた。
(瀬戸 武彦  (ドイツ文学) のエッセイより)



3年生まで1学期は2部授業だった。
 早番は1時限目~3時限目+給食で帰宅
 遅番は給食+4時限目~6時限目
これが隔週で入れ替わったのかな?そこはよく覚えていない。

夏休みの間に突貫工事で木造2階建ての校舎増設が終わり、2学期3学期はは解消されていた。
4年生では別の記事に書いたように、学区再編成、新しい小学校の設置があり、2部授業は解消された。
それでもクラスメートは57人、何クラスあったんだろう?

小学校の担任の先生、7人!

2017-02-01 14:59:55 | 団塊の世代
小学校が6年間であることは、団塊の世代も、現在の平成の子でも同じである。
最近だと、クラス替えが3年生なるときと、5年生になるときの2回が多いと聞いている。
すなわち、1・2年は同じ仲間で、担任の先生も同じ、3・4年も同様、そして5・6年も。
ということで、親の都合で転校しなければ、6年間の担任の先生は3人程度。
運がよければ、クラス替えはあっても前の学年と同じ先生のクラスになることもあり、そうすれば6年間の担任の先生は少なくなる。

私の場合、運が悪かったんでしょうね?
転校もせずに同じ鳥飼小学校に6年間通ったのに、担任の先生は7人なってしまった。
鳥飼小学校自体が昭和27年に草ヶ江小学校から分離してできたばかりの新設校だったが、その後も戦後の引き上げ?なのか、学期ごとに転入生が続々と続き、当時の学級定員(何人だったのでしょう?)を超えてしまい、2年生になるときに学年のクラス数が増えることになってしまい、普通であればクラス替えがない1年生から2年生になるときクラス替えがあった。不運にも?1年のときの担任の釈迦野?先生のクラスには入れなかった。
さらに(このあたりは記憶が曖昧な所もありますが)運が悪く?、クラスが増えても先生が足りない!!!なんてこともあったのか、1学期だけ別の先生になってしまい、夏休み明けの2学期から正規の平井先生が着任して担任をしてもらった。これで3人。

2年から3年になるときは、普通通りクラス替えがあり、またしても担任はかわり、別の記事に載せたクラス写真の笠先生が担任となった。

3年から4年になるとき、クラス替えがあったかどうか?4年のときのクラス写真で確かめてみなくては・・・
写真がどこに行ったか・・・・
手元にあるデータによると、クラス写真に写っているクラスメートの人数が
 小2 57名
 小3 65名
 小4 57名
 小6 55名
となっており、また一クラス増えたのか?クラス替えがあったようでもある。いずれにしろ担任の先生は変わってしまった。
4年生の2学期から、隣の当仁小学校が母体になり、南当仁小学校を分離することに伴い、校区が変更になり、鳥飼小学校の校区の一部が南当仁小学校の校区に編入された。その連中は2学期から新しい南当仁小学校に通うことになるので、このクラス替えで前もって、その連中のクラスができたことを記憶している。

現在、鳥飼小学校は「城南区」にあるが、「鳥飼」という町(地区)は中央区と、城南区にまたがっており、すべてが鳥飼小学校の校区だった。それがこのとき、鳥飼であっても、鳥飼小学校と南当仁小学校とに分割されてしまった。

さらに、鳥飼小学校から南当仁小学校へ編入されてしまった地区の一部は、2学期から南当仁ひ移らず、鳥飼小学校で卒業することが許されてた。
住んでいたのがその特殊な場所で、南当仁小学校へ移ることなく、鳥飼小学校に残留することにした。

2学期からクラスが減り少しさみしくなった。

4年から5年になるときは当然、クラス替えがあり、担任も変わった。
この頃になると、担任が変わるのには慣れてしまった。

5年から6年になるときはクラス替えもなく、普通は担任も変わらないものだ。他のクラスはそうだった。
なのに、何故か?私のいた1組だけは担任が変わってしまった。5年のときの担任が他校へ転勤だったのかな?

ということで、2年のときの1学期と2・3学期で担任が変わったことを含め、合計7人の先生に担任をしていただくことになってしまった。