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市外電話

2023-03-25 12:36:45 | 団塊の世代
昔の固定電話
電電公社に申し込んでもなかなか電話を着けてくれなかった!
電話機は公社から借りている?黒電話でしたね。
そのご、電話機が市販されるようになり購入して繋いでもよくなりましたね。

市内は自動化されていましたが、市外は交換に申し込んで繋いでもらうのが昭和30年代。
申し込んでもその場でつないでくれるわけではなく、申し込み順。
ということは一端切って、交換からの電話にでて、繋ぐという形でした。
急いでいる場合は、その順番を繰り上げてもらう「至急」(用語は覚えていません)があり、
それだけ通話料が高くなりました。

携帯電話が普及するまで固定電話の市内・市外の通話料の差は大きかったですね。


blogを再開しようとしています。

遠足のおやつ代

2019-03-14 23:19:38 | 団塊の世代
しばらくお休みしてましたが、お昼寝から復活!

最近お山の団塊の世代で話題になったこと。
団塊の世代と言っても昭和15年から昭和30年位まで15年から20年ほどの差がある。

で、話題とは
「小学校の遠足のときのおやつ代はいくらだった?」

低学年のころは10円だったような記憶が残っているのですが、確かではありません。そもそも10円で何が買えたんでしょう?駄菓子屋の前でこれとあれにしようと悩んだことは覚えています。1円札、10円札があった時代です。

小学校を卒業するころ(高学年)には50円までアップしたような・・・

ちなみに昨日、小学校2年の孫に聞いたら、現在は200円だそうです。

講堂、体育館、プール

2017-03-06 17:39:30 | 団塊の世代
団塊の世代の学校は「二部授業」にも書いたが、普通の教室が足りない状態だったので、
音楽教室、美術教室、理科教室・・・などの特別教室があるはずが無い。
当然、講堂も体育館もプールも無い、無い、無い
ないないずくしである。

と言っても、団塊世代は昭和22年から23年、24年度生まれの3年間がバカ多かったので、
それが過ぎ去ると余裕ができ始める?

小学校 5年生の時に体育館兼講堂ができた。プールはなかった。
中学校 卒業式は体育館兼講堂が使えた。使い初めだった。プールは無かった。
高等学校 立派な講堂(体育館兼用?)、ぼろな体育館。立派な柔剣道場があったが、プールは卒業した年に完成した。ということは使えなかった。
     (正確に言えば、水が溜まらない戦前からのプールはあった。これを取り壊してプールが新築された。)

講堂がない小学校には2教室の間の仕切りを取り外せば(今であれば、アコーディオン壁に相当)、大教室になる教室が1つあり、学芸会(学習発表会)はその大教室で行っていた。
図書室ができたのは何年生の時だったろう?

中学校は3年間とも図書室はなかったような?

高校は図書館(別棟の建物)が整備されていた。

家庭教師

2017-02-27 14:09:53 | 団塊の世代
昔は大学生のアルバイトと言えば、
家庭教師
が多かった。というか、
一番コスパがよかった?
受験生でない高校1・2年生、中学生が多かったかな?

週2回、各回2時間程度が標準で月5千円程度の報酬だった。
大学受験の高校3年生、高校受験の中学3年生だともう少し色がついていた。
学生の生活レベルであれば、1万5千円程度ひと月の生活がおくれていた。
中には2つ、3つやる者もいた。

親との面接で、片手を出されて、「これでいいですか?」と尋ねられ、
上記の通り5千円は標準的な報酬なので「かまいません」と答えたら、
ひと月の最後にもらった報酬が5万円だったという話を聞いたこともある。
これは本当にあったのかな?都市伝説かな?

私がやった家庭教師の変わり種は「大学生の家庭教師」である。
昔は大学4年のうち、最初の1~2年は教養教育が必須で、
その中で単位がとりにくい?勉強が必要?なのが、「語学(英語)」と、
理工系学部であれば「数学」と言われていた。

理工系学部の学生の中に大学の数学の講義についていけないというのも珍しいことではなかった。
それでもほとんどは卒業していくんですがね。
中には本気に心配する親もいて、頼まれて某大学の工学部の1年生の数学の家庭教師をした。
まじめな大学生で勉強する気はあるのだが、授業中にわからないところを挙手して質問するほどの
勇気が無い?ので、家庭教師とはいっても実質は質問を受けて、それにやさしく解説するのが仕事だった。

家庭教師は自分の都合で決められた日(曜日)に行けない場合は、代わりの日(曜日)を設定するのが普通であるが、
別の曜日に行くのも難しかったので、最初から、私の都合で行けなくても代わりの日は設定しない。
その代わり、4回やったら報酬1万円ということにしてもらった。

月日は流れ、現在は
塾全盛の時代ですね。

家庭教師の求人はガタ減りし、
家庭教師を求める人は、塾に行くのが不便な所に住んでいる人が多くなった。
その不便な場所に行くには車・バイクが必要なことが多い。
それらを持っていないとコスパに優れている家庭教師の口を探すのもままならぬ。

現在の家庭教師の報酬はどの程度何でしょう?

お題「寝台列車に乗ったことある?」

2017-02-26 12:23:33 | 団塊の世代
若いころには福岡に住んでいたので、新幹線が東京・新大阪間で走り出すまでは、東京へ行こうとすれば寝台列車が当然。それもいわゆるブルトレ(特急)ではなく急行列車の寝台利用。その寝台も取れずに、座席で我慢することも普通だった。

ブルトレ、2段式の電車寝台、急行の寝台列車についてはすでに記事も集まっているようなので、省略し、ここでは普通列車の寝台の経験をお披露目しよう。

九州管内で門司港から日豊線経由で西鹿児島(多分、終着駅は正確には覚えていない)行の夜行鈍行に寝台車が1両だけ連結されていた。
夜の10時頃に出発し、宮崎に朝の6時頃に到着。
鈍行とはいっても夜行列車では止まらない駅もありましたね。
寝台車は当然、2等の3段式。
(A寝台、B寝台っていつからですかね、その前は1等、2等でしたよね)
2等の3段式は急行列車の寝台車両でも普通に使われていたので、内部は急行と変わらない。ただ、普通列車に接続されているのは急行列車で使い古した車両のような感じだった。

若かったので、3段式では上段が好きだった。
上段は窮屈に感じるかもしれないが、荷物置き場と境がなく、寝た時の頭の上(水平方向の意味)にゆとりがあった。その意味では中段がいいとこ無しで嫌いだった。

寝台料金って幾らだったんでしょう?
記録はありませんが、同じ時期に大阪・富山間の急行寝台(急行料金+寝台料金)が1500円という記録が残っています。普通寝台だったら?

最期に寝台車に乗ったのは何時でしょう?
忘却の彼方ですね。

といいつつ、東京と特急寝台が繋がっている処に現在住んでいるので、
近いうちに数十年ぶりの寝台列車を体験しそうです。

摂氏5度

2017-02-13 00:26:56 | 団塊の世代
九州は暖かいというイメージがあるのか?小学校から、中学、高校と学校にはエアコンどころか、暖房の設備は無かった。
博多は九州でも玄界灘に面しており、日本海側の気候に近く、冬は大陸からの冷たい「玄海おろし」が吹くことも多かった。

小学校では(中学でも?)授業が終わると、帰りの会が終わって教室の掃除。掃除は拭き掃除もありますね。冬になると水が冷たい! 昔は栄養状態も今ほどよくなかったので、しもやけの子も珍しくなかった。
小学生冬の拭き掃除は嫌でしたね。

それが気温5度以下のときは拭き掃除をしなくてよいという決まり?で、寒いときには部屋の温度計に一喜一憂したものだ。ちなみに教室の気温が3度ということもあり、暖房がない教室では先生の号令のもと、天突き運動で体を温めて、授業を続けていた。

中学はよく覚えていないが、高校に入ると拭き掃除がなくなりホットしたものだ。
大学に入ると、エアコンは無かったが、暖房があった。

下宿、間借り、アパート

2017-02-12 23:54:34 | 団塊の世代
団塊の世代の学生時代の住居と言えば、下宿か間借り。

下宿は賄い(食事)付き、間借りは部屋だけで食事なし。
当然、洗面所、トイレは共同。部屋に水道・流しは無し。
共同の炊事場がある所もあったが、それは珍しい方だったので、
自炊は基本的にできない。

大家の一室、ないしは2階の数部屋を部屋ごとに別の学生が借りているという状態で、風呂があったり、無かったり。風呂があっても毎日ではなく、一日おき程度が多かった。まあ、近くの銭湯にタオル・石鹸を持って出かけるのが普通だった。

自室用の玄関、部屋の中に水道・流し・ガスがある「アパート」もあったようだが、学生で済んでいる者は皆無に等しかった。アパートでもトイレは共同という所もあったし、風呂はない方が普通だった。

電話はまだ各家庭に普及している時代ではなかった。
普通の家庭では電電公社に申し込んでも半年から一年ほど待たされる時代だった。
ので、大家に電話が無いことも珍しくなかった。
大家に電話があっても、それを下宿の住人に使わせる(発信)所はほとんどなかった。(緊急時は使わせてもらえるようでしたが、日常はダメ)。市内電話は10円で話し放題だったが、市外電話は高かった。
受信については大家が呼びに来てくるところもあった。
このため緊急の連絡は電報だった。

向こう三軒、両隣

2017-02-07 01:34:27 | 団塊の世代
団塊の世代がどれだけ多かったか?って

家の周りにどれだけ同期生(同じ学年の仲間)が居たか考えるとわかりやすいかな?
右隣には同期生(女)、その右は川で家無し、
左隣には一期上(男)、その隣には同期生(男)、その隣にも同期生(女)
向かい側
正面右側に同期生(男)、正面は2軒分の大きな家でそこの子は団塊の世代より年上だった。
という感じで、同期生がうじょうじょ居た。

友人の家に遊びに行ったら、友人を含め、
並びの4軒、向かいの3軒に男の同期生がいて、
遊びに行った私を含め8人があれやこれや言う前に集まって野球(三角ベース)が始まった。
これには私もびっくりしたことを覚えている。

テレビ・ラジオ

2017-02-03 15:13:53 | 団塊の世代
テレビが我が家にやってきたのが小6のころ?。
それまではメディアと言えば、ラジオだけ。

さすがに「君の名は」は聞いていなかったが、
 笛吹童子~ひゃらあり、ひゃらりこ、ひゃりーこ、ひゃられーろ・・・(放送期間1953年1月5日~12月31日?)
 赤胴鈴の介
 一丁目一番地
あたりから
 ラドン(なかなか情報が見つからない!)


白黒テレビ時代の番組で記憶しているものはあまりない。
 高校2年のときに東京オリンピック程度であろうか?
どちらかというとスポーツ嫌いの傾向もあり、東京オリンピックもあまり熱心には見ていなかった。

カラーテレビは結構早く我が家にやってきた。
浪人するか、金のかかる私学に進学するかと思っていた次男坊(わたしのこと)が現役で地元の国立大学に入学が決まり、私学の入学金・授業料として準備していた学資が不要となり、喜んだ父親が誰にも相談せずに注文したカラーテレビが突然やってきた。

大学1年が終わった時、父の転勤とともにカラーテレビは親と一緒に行ってしまい、小6の時の白黒テレビが私の4畳半の下宿に残されていった。
当時は学生の下宿にテレビを持っている者は皆無に近かった時代である。

保育園・幼稚園

2017-02-01 23:03:44 | 団塊の世代
団塊の世代で保育園・幼稚園に行っていた者はどの程度何だろう。

当時は専業主婦が圧倒的であり、私の母もそうだった。
会社の社宅(木造平屋)に住んでいたこともあり、団塊の世代である、
周りの社宅には同じ年がごろごろ、±1歳までいれると、それこそ雨後の筍、
履いて捨てるほどいた。そんな仲間と朝から夕方まで外で走り回っていた幼児時代。
保育園・幼稚園に行っている者は周りにはいなかった。

小学校に入る前の年の7月末頃に親の転勤で福岡に移った。
現在は九州新幹線で1時間半ほどらしいが、当時は蒸気機関車SLの夜行列車で、
博多に着いたのは雨の朝だった。
一か月ほどは社宅が空くのを待って仮住まい。
8月間tに鳥飼の社宅に入った。

社宅であるが以前とは違い、3戸のみ、うち1戸は関連会社のものだった。
隣には1歳年上の男の子と少し大きなお姉さんがいた。別の隣(関連会社)には
もっと大きなお姉さんが二人か三人かいた。
同い年はいなかった。いわゆる隣組には沢山いたのですが両隣の社宅はこんな感じだった。

小学校入学まで半年余りということで、幼稚園に行くこともなく、何して過ごしていたのでしょう?

翌年の4月、子供の足で10数分の所にある鳥飼小学校へ入学。
団塊の世代の一期生が学童になった年である。

友達もできて(あまり覚えていないのですがね)普通に過ごしていたある時、
「幼稚園の同窓会」とかいう話を仲間の中で話しているのが聴こえてきた。
なんと仲間の多くは小学校に入る前に幼稚園というものに通っていたということを初めて知った。
当然ですが、その幼稚園の同窓会の日は一人ぼっちになってしまった。うらやましかった!

幼稚園ってどんな所だったんだろう!?