以前から観たいと思っていた『レイ』という作品をつい最近観た。
この手の自伝的作品は主人公に扮した役者がイマイチなのが多いけれど、この作品に登場するジェイミー・フォックスの噂にたがわぬ名演振りには驚かされた。
特に演奏している時の彼は思わずレイ・チャールズ本人かと疑うほど似ていた。
でも勿論、そんなわけはないのだ。ジェイミー・フォックスが演じているのは、若い頃のレイ・チャールズなのだから。
ジャンキーで女狂い。
晩年の彼のチャリティー・コンサートなどの慈善活動をみると、とても想像し得ないトップ・スターの裏の顔が赤裸々に語られている。
盲目ゆえの処世術のようなものも前半で切々と語られ、アトランティック・レコードと契約するまでの紆余曲折はとても興味深い。
僕が最初にレイ・チャールズの音楽に出会うのは、二十代の終わりの頃だ。
きっかけは、そう、著名なアーティスト達が終結した「USAフォー・アフリカ」。
アフリカ飢饉の救済ソングとしてPVで流れた『ウイ・ア・ザ・ワールド』で初めて眼にしたレイ・チャールズは、名前でしか知らない過去の偉人であった。
『レイ』を参考にすれば、クラブで歌うチャンスを与えたのがクインシー・ジョーンズとの出会いだったとすると、『ウイ・ア・ザ・ワールド』の出演はクインシーへの恩返しのようにも思える。
このチャリティーがきっかけになり、やがてビリー・ジョエルの『ザ・ブリッジ』のレコードに参加、「ベイビー・グランド」でビリーとデュエットすることになる。
過去の偉人はこの時点で、僕が尊敬するビリーのフェイバリット・シンガーという位置付けに変化していった。
昔からレコードやCDを買い続けているレイ・チャールズだが、当初は音楽にジャズ色が色濃く、あまり好きではなかった。
『レイ』でも語られているようにデビュー当時は、ナット・キング・コールの二枚煎じと揶揄されていたのは確かだろうし、アトランティック・レコードも彼の未知数な才能に投資したのだ。
僕はレイ・チャールズがゴスペルやカントリーをロックンロールみたいに演奏するときの彼が好きだ。
荒削りだけれどつい耳を傾けてしまう「メス・アラウンド」でそれまで眠っていた粗野な一面を垣間見させ、アトランティック・レコードでの音楽的方向性を示した。
神聖なゴスペルを大胆にアレンジしてみせたことで一部の敬虔なクリスチャンからは批判されていたみたいだが、それは彼の音楽的価値まで奪うものではなかった。
『レイ』で描かれていたことは、人間としてのレイであり、盲目としての苦悩や弱さを浮き彫りにしている。
「盲目の苦しみなんか誰にもわからない」。
劇中でこう訴えるレイは、麻薬常習をやめようとしない。
神がかり的な名曲群を生み出してきた天才が、麻薬の力を借りてこれらの偉業を成し遂げてきたことは否定できないが、レイ・チャールズは破滅的なロック・スターの運命を迎えることなく,寸でのところで悪魔の手から逃れていく。
厚生施設での想像を絶する死闘もこの『レイ』では描かれていて、観る前と観た後ではレイのクリーンな印象が僕のなかでがらりと変わってしまった。
それはそうと、僕はこの映画を観たあとで、久しぶりに『the definitive Ray Charles』を聴いた。
ほぼ彼の全盛期の名曲を収めたこの2枚組みのベストは間違いなく僕のお気に入りだ。
劇中で披露している代表曲もしっかりとこのCDで聴くことができるから、あえて『レイ』のサウンドトラック盤を買うこともないな。
そんな風に思っている。
ところでレイ・チャールズが、もしも盲目でなかったならあんなにビックになっていたのだろうか。
これは僕がずっと思い続けてきた疑問であった。
「盲目の苦しみなんか誰にもわからない」。
彼が言った言葉が蘇ってくる。
巧いピアニストにはなっていただろうし、巧いシンガーにもなっていただろうね。
でもきっと彼は「レイ・チャールズ」にはなっていなかったように思う。
神様は彼から視力を奪ったけれど、彼に天賦の才能を与えた。
それは、『レイ』の中に答えがある。
興味がある方は是非、ご覧ください。
最高の映画ですよ。
今年もこんな風に音楽や映画の話のブログになると思いますが、ヨロシク。遅ればせながら、あけおめです。
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