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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

創造性

2008-11-06 10:55:43 | ルカ
ルカ14;1-6


『福音の味わい』英隆一朗


愛に基づいた創造性によって慣習を破る。


この時、
尊重し守る事と
尊重しつつ超える事とを識別する力が要る。


知る力と見抜く力。(ピリピ1;9)

祝福の電話(ルカ17;21)

2008-10-15 13:39:00 | ルカ
実に、
神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17;21)


先日の日曜日の夕方、
私は夜勤明けで寝ていたが
置きだしてもそもそしていると
じじの教会行きに同行したヘルパーさんから
電話が来た。


その日は別のヘルパーが教会に同行する予定だったが
事情で急遽仕事を休んだので
もう一人の教会同行者の都合がつかず、
キリスト教の教会には足を踏み入れた事の無い人が
ぶっつけ本番的に教会同行時の仕事の手順や
聖餐式の時の介助などを事前にヘルパー同士で
電話で打ち合わせし、
また別の仕事がぶつかって代役を出来ない担当者が
牧師先生に前日電話で連絡を取って
教会が全く初めてのヘルパーが同行するのでよろしくと
事情を話す配慮までしてくれていた。


毎回、聖餐式の度に
じじが無事に分餐の言葉を告げる事が出来るかどうか、
じじか無事に隣の人に渡す事が出来るかどうか、
教会同行のヘルパーさん達ははらはらして
気を揉みながらじじの横に付いている。
聖書を開いてやったり
賛美歌を開いてやったり
私が書いて渡した分餐の言葉のメモ書きを
じじに持参させ、開いてやったり
きめ細かい配慮に絶えず心を配ってくれる。
おかげでじじは失敗してへこんだりする事なく
聖餐に与る事が出来ている。


日曜日の同行者は5人の担当者のうち
毎週日曜に勤務の出来る2人が交代で
じじを教会に連れて行って礼拝の間の介助をするが
教会に馴染んだ2人のうちの1人が休むと
他のヘルパーは勝手がわからない。
まして宗教団体に同行し
宗教行事の中でも緊張する儀式の介助に理解を示し、
じじの信仰を尊重して快く協力してくれるのは
本当にありがたい事だ。


「事後承諾になってしまってすみません、
 夜勤に行ってらっしゃる間に
 行くべきだった者が急遽出られなくなったので
 私が代わりに教会に同行させて頂きました。」


「そうでしたか。
 あれ、でも聖餐式だったでしょ?
 大丈夫でしたか?」


「はい。
 一応事前に聞いていたので無事に終わりました。
 私、キリスト教の教会という所って
 初めて足を踏み入れたんですよ。
 何もわからないし、
 何か失敗したらどうしようと思って
 ドキドキしてたんですが、
 教会の皆さんが親切にいろいろ教えて下さって、
 助かりました。」


「いやーそれはお疲れ様でしたね。
 信者でない方に
 仕事とはいえ礼拝の同行だけでなく
 聖餐式の介助までお願いするなんて
 心苦しいです。
 でもありがとうございました。」


「いいえこちらこそ牧師さんから紹介されて
 拍手なんかされちゃいまして、
 歓迎されたみたいで嬉しかったです。
 初めての経験でした。」


電話の向こうで
ヘルパーさんは興奮気味の声で話していた。
初めての同行で教会を楽しんで貰えたらしい。


びっくりした。
疲れも消し飛ぶ祝福の電話であるよ。
夜勤明けに自宅で寝たりしないで
無理しても礼拝に行けばよかったな。


天の父なる神様、感謝します。
ヘルパーさん達を祝福して下さい。

願う(ルカ18;1~8)

2008-10-04 08:53:12 | ルカ
ルカ18;1~8


FEBC『神との親しみを深めるために
     ―祈りを身につける―』英隆一朗


願う事は
真剣に、全身全霊で神に向かう事。


自分は
どこまで真剣に
どこまで必死に
神に向かって願い求めているか。


行動が伴わないなら、
願っているとは言えない。


自分の無力さを心の奥底でどれだけ認めているか。


自分は自分の無力さを心の底から認めて
本心から主なる神にひれ伏しているかどうか。


祈る時、
一日24時間、365日、
自分の存在を懸けて、
自分の全力を捧げ尽くして、
自分の生き方の全てを懸けるだけの
真剣さが自分にあるかどうか。

憐れみ(ルカ6;27~38)

2008-10-04 07:34:56 | ルカ
ルカ6;27~38


『福音の味わい』英隆一朗


神の底知れない憐れみに与る。
イエスが憐れみ深いからこそ
憐れみ深い者となる。


神の愛をどこまで徹底して実践しているか。


日々の生活の中で
具体的にどれだけ実践しているか。


律法で人を裁かないのは当然。
自由な気持ちで
しかし良心の弱い人々を躓かせない、
パウロのような生き方。

幸いと不幸(ルカ6;20~26)

2008-10-04 07:18:46 | ルカ
ルカ6;20~26


『福音の味わい』英隆一朗


幸いな人々


貧しい人々
飢えている人々
泣いている人々


イエスが共におられる人々
イエスが心の置き場所にしている人々


主イエスが貧しい人のために
ご自分を捧げて下さったからこそ
貧しさの中で
苦しさの中で
イエスの復活に出会い
聖霊を与えられ
慰めと力、幸いを頂く事が出来る。


自分がイエスに従うのは
自分の幸いのためではないという事。


不幸な人々。


自分のために満腹している人々
自分のために富んでいる人々
自分のために笑っている人々


一生涯イエスに従うには
イエスの苦しみに与って一生涯戦う覚悟が要る。
自分自身の心の平安や慰めは目標ではなく
イエスと共に
苦しむ人々に神の愛を宣べ伝えて行く
その生き方に自分を投げ出す事。


イエスが目指しておられるもの
イエスが全生涯を懸けてご自身を捧げ
十字架に架かって死んで
復活してまでも成し遂げたいと目指しておられる思いを
日々の祈りと生活の中で貫く。


復活してめでたしめでたしではない。
復活した主に出会ったからこそ
全世界の人々に福音を告げよと
私達を遣わされている。


幸いな生き方。


イエスと共に苦難を背負いながら
その生き方を一生涯貫いて行けるかどうか。

捨てる(ルカ9;43~45)

2008-10-01 04:24:26 | ルカ
ルカ9;43~45


『福音の味わい』英隆一朗


自分を捨てて
自分の十字架を担う事。


殉教者達が拷問に耐え、命を捧げた、
肉体が血を流す殉教がある。


日々の生活の苦難や困難の中で
人の目に見えない所で心が血を流す殉教もある。


苦難や困難は向こうからやって来る。
それから
どれだけ逃げずにいられるか。
どれだけ逃げないで直視し、受け止めるか。


自分自身の中の困難の中で自分を捨てる。
そこから頂く神の恵みに注目出来るかどうか。

信仰、希望、愛(ルカ8;1~3)

2008-10-01 03:58:44 | ルカ
ルカ8;1~3


『福音の味わい』英隆一朗



自分はイエス・キリストを信じるという時、
イエスの何を信じているか。


イエス・キリストが生まれた、
イエス・キリストが人として生きた、
イエス・キリストが十字架に架かった、
これらは信じても信じなくても
誰も否定出来ない事実。


イエスの何を信じるか。


イエスが復活したという事。
イエスが復活して私達を救って下さっているという事。
イエスが私達を復活の命に招いて下さっている事。


イエスの復活を確信する事によって
揺らぐ事のない希望を抱く事が出来る。
私達の生き方の根本はその希望にある。


信仰と希望を持って
イエスと共に旅をする。
イエスと共に奉仕する生き方に
私達は招かれている。

識別(ルカ7;31~35)

2008-10-01 03:40:15 | ルカ
ルカ7;31~35


『福音の味わい』英隆一朗


全知全能の神に自分を合わせているかどうか。
自分の望みや願いに
神が合わせてくれる事を要求していないか。


願ったけど聞き入れられなかった
信じているのにどうしてこんな目に遭うのか


そのように思う時


自分が神と共に歩いているかどうか。


神の望みに自分を合わせるか
自分の望みに神を引き寄せて合わせようとするのか
自分がどちらであるか。


自分のエゴを
自分の囚われを
自分の望みを


置いて


神と歩調を合わせているかどうか。

じじ、教会大好き

2008-04-04 12:18:57 | ルカ
実に、
神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17;21)


昨夜、
別件で牧師先生と電話で話して、
ついでにじじの話も出た。
火曜日に牧師先生が
じじ宅を訪問して下さっていた。


またいつものごとく、
じじは自分の喋りたい自慢話を延々と語って
牧師先生を辟易させたらしい。
それでも使徒信条や聖書の話をしたと
牧師先生は言っていた。


じじはキリストが大好きで聖書の話を喜ぶ。
私と聖書を開く時には自慢ネタなど話す事をしないが
牧師先生が行くとすっかりはしゃいで
いろいろ話したくなるらしい。


はー。。。。。。orz


いつもすみません。
感謝します。


教会通いは目下じじの楽しみになっている。
ならばじじ、長生きしなきゃ。


これからしなければならない事。
今月の聖餐式の日、
じじは初めて聖餐に与る。
それまでに聖餐式の式次第に則って
分餐の言葉をじじに覚えて貰う。
主の祈りや使徒信条同様、
カンニングペーパーを見ながらでも
馴染んで頂こう。


「○○○○さん、
  これは、
  あなたのために裂かれたキリストの体です。」


「○○○○さん、
  この杯は、
  キリストの血による新しい契約です。」


はー・・・・・。
難易度高いかなぁ。
じじにとってうちの教会はハードル高いかなぁ。


その後、
教会仲間の一人と電話で別件の電話。
ここでもじじの話が出た。


「年老いた親に伝道して、
 それが実って教会に行くようになって
 洗礼を受ける事が出来たからこその悩みだよね。」


そんな話をした。
悩みも苦労も恵みがあってのもの。
ありがたい事だ。

祈りの輪(ルカ17;21)

2008-03-21 12:58:53 | ルカ
実に、
神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17;21)


牧師先生の退院が急遽延期になった。
明日の午前中の退院は無理となった。


今日の昼に
一度重湯を食べていいと許可になったものの、
その後で腹部X線写真に何かの問題があるのか、
再び絶食を言い渡されて点滴を再開されて
医師から退院延期を言い渡されたという。


夕方、牧師先生本人から牧師夫人に
電話で連絡があっただけで
医師からの説明も
慎重に経過を見るというだけで
まだ何もわからない。


明日午前中の予定だった退院が延期になって
ではいつ退院出来るのか
イースターや洗礼式には出られるのか
全く分からない。
分からなくて一番不安なのは
牧師先生本人と牧師夫人だ。


昨夜遅くまで
教会の仲間達一人一人メールで
祈りの応援を頼んだ。


御手に委ねようと言いながら、
正直、誰よりもうろたえて
チキンだったのは
他ならぬ自分かも知れないと思った。
何故なら
いろいろな症例を見て知っているので
どうしても
何でもよくない方へよくない方へと
常に最悪の事態を想定して身構える、
そういう習慣が身に着いてしまっている。


昨夜、じじには
牧師先生の状態を詳しく話した。
牧師先生は今日金曜の午後に
じじ宅を訪ねて下さる予定だった。
洗礼式直前の打ち合わせをしたかったのだ。
でも退院したその足で
じじを訪問なんて無理はしなくても、
じじは大丈夫。
授洗式の時の流れと、
牧師先生から信仰を問う質問をされたら
何と応えるか、じじ本人に聞いて確認した。


「はい。信じます。」


よっしゃ。
牧師夫人に電話して、
じじは大丈夫だと牧師先生に伝えて貰った。
じじとテーブルを囲んで牧師先生の回復を祈る。
じじはアーメンと言った。


じじは大丈夫。
しかし私は内心気を揉んでいた。
職業柄とはいえ、
きっと大丈夫だよと安心する事が出来ない、
もしああだったら、
もしこうだったら、と想定して
最悪の場合にはどうすればいいか、
皆と相談して、
その中で自分に何が出来るか、
そんな事を考えていた。
教会の仲間から同じ思いの返事が返って来た。


 "心配だけど、
  今、自分に出来る事をしようと思う。"


 "何が出来るだろうか。
  牧師夫人の足になって車で送ろうか。"


 "ただただ祈ります。"


その後明け方まで
じじとの聖書朗読の記録を記事更新して
日が昇ったのを見て
仮眠のつもりでベッドに入ったら、
教会仲間のメール着信で目が覚めた。
先程、
牧師先生が無事に退院したと。


主治医が後出血を心配して
大事を取り、慎重になっていたという。


ああ。
よかった。ほっとした。
早速、
昨夜祈りの応援を頼んだ仲間全員に報告する。
次々と喜びの返信が来て、
皆、ほっとしている。


散々うろたえだけど
一夜明けてみたら
復活の主日を前にして
私達の教会はこうしていつの間にか
祈りの結束を強めている。


感謝と賛美を捧げよう。
全能の主なる神に。

じじの受洗について(ルカ17;21)

2008-03-17 16:15:43 | ルカ
実に、
神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17;21)


じじは復活の日に洗礼を受ける。


その日は午後から皆で食事をするので
ヘルパーの時間延長を派遣会社に依頼した。
じじが正式に教会員になったら
今後は毎月1回、礼拝の後に聖餐式に出るため、
じじの教会通いに同伴してくれるヘルパーさんの
時間延長が可能かどうか。
それも事前の連絡で派遣会社からOKが出た。
月報の作成と共に派遣会社に連絡を入れる事になった。


私達の教会の聖餐式はじじにとって難易度が高い。
分餐の言葉を言って
次の人にパンと杯を渡さなければならないし
聖餐式の間、信者でないヘルパーさんには
傍らで待機してて頂く事になる。
(その事についてもそれでいいのか考えなければならない。)
高齢者や心身に機能障害のある人が
聖餐に与る場合の障壁について、
私達はまだ十分に検討していない。
何故なら
私達の小さい教会は皆、働き盛りからそれ以下の
若くて五体健全な人ばかりだからだ。


耳が遠くて分餐の言葉を言う事が出来ないとか
目が悪くて分餐の言葉の紙を読む事が出来ないとか
今自分が何を話して何を食べて何を飲むか
どのタイミングで飲むか
今飲んでいいのか良くないのか
状況を理解出来ないなど
私達の教会でこれまでに悩んだ事は無かった。
その場その場で誰かが介助してくれるとしても
毎回毎回その介助を受ける事が可能か。
もし隣にも同じような課題を持つ人がいたら
無理、ついて行けない。


一人の信仰者が生まれる時、
新たな課題も与えられる。
それにどう対応するかを考えなければならない。


じじは私達の教会に
新しい試みと試行錯誤をもたらすと思う。
私達は皆でそれを
乗り越えなければならないのだと思う。
じじが教会に来て良かった事良くなかった事、
それらの小さな成功と失敗の積み重ねが
今後私達の教会にとって参考資料になって
私達に学びと工夫の機会を与えてくれる。


同じような介護の問題を抱えた人や高齢者や
心身の病気で様々な課題を抱えた人をどんな風に
同じ目線の家族として受け入れるか
或いは
受け入れる事が出来るのか出来ないのか
どんな工夫が出来るか。


じじが教会で抱える課題を突破したら
その後に続く人を
神様が教会に送って下さる気がする。
既に、私の教会仲間にも
親を教会に連れて来たいけど
まだ課題をクリア出来ずに
二の足を踏んで悩んでいる人もいる。
その事で私達はずいぶん話し合ったり
祈ったりしてきた。


感謝します。主なる神。
じじが
いろいろな障壁になる課題を突破しますように。





さっき
牧師先生から連絡があって
洗礼式までにじじ宅を訪問して下さるとの事。
有難い事だ。

じじの主日礼拝(ルカ17;21)

2008-02-17 22:35:02 | ルカ
実に、
神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17;21)


日曜日。
私は遅出日勤だった。


出勤のためバス待ちしてると、
ヘルパーさんから電話が。
じじを連れて教会に行く途中、
車の窓から私の姿を見たのだそうだ。
私の出勤時刻とじじが礼拝に出かける時刻が
ちょうどカチ合ったらしい。
私がバス待ちする国道を、
じじとヘルパーさんの乗ったタクシーが通過した時、
ヘルパーさんが
バス待ちしている私を見かけたのだそうだ。


じじには介護してくれるヘルパーさんが
交替で5人いる。
そのうち2人が交替で
毎週じじを教会に連れて行ってくれる。
助かるよ。
じじがよく笑いよく喋るようになったのは
今のヘルパーさん達のおかげ。
以前のじじからは想像出来ないほど
じじは楽しそうだと
行きつけの珈琲店の店主夫妻が言う。
じじが声を出して笑うなど、
私は見た事がなかった。


じじの食生活も服薬も彼女達のおかげで
管理が軌道に乗り、
食のバランスが保たれて
間違って飲んだり飲み忘れたりする事がなくなった。
気づいた細かい事もよく連絡してくれて
相談してくれる。
娘が5人いるみたいでじじは楽しそうだ。


教会に同行してくれる2人は
教会の皆とも円満に関わってくれるみたいで
その日教会であった出来事を
仕事で教会に行かない事の多い私にもわかるように
連絡ノートに書いて報告してくれる。
じじが教会の子供達を見て嬉しそうにしている様子や
ごくたまに来るインドネシアの船乗りの2人が
久しぶりにうちの教会に来た事とか
じじの反応を私に知らせてくれる。
じじの足腰が弱っている事や
車椅子の具合の良し悪しなども。


「クリスマスはお仕事ですか?
 教会に来られるといいですね。
 今、皆で賛美歌の練習しています。
 お父さん、楽しみにしてますよ。」


「今日、
 ○○さんからよろしく伝えてと言われました。
 夜勤だったんですね。
 お疲れ様でした。
 また教会に行けるといいですね。」


私とヘルパーさん、
この頃電話でどっちが教会員だかわからない会話をする。


じじが教会に行くために
神様がちゃんと協力者を備えて下さった。
私だけでは全く無理。
夜勤明けの日曜日にじじを教会に連れて行くとか
じじを教会に連れて行ってから夜勤入りするなど、
時間的にも体力的にも不可能。
私だけでは
日曜日に日勤がついたらじじは教会に行けない。
じじの教会通いが私の勤務で左右されないように
ちゃんと道が整えられたのは本当に有難い。


おかげで、
私は遅出日勤で19:00過ぎに仕事を終えても
安心してじじに電話する。


「お父さん、今日教会どうだった?」


「教会、行って来た。」


「いやいや、それは知ってるからさ、
 今日教会どうだった?」


「いつもと同じだ。
 子供達がたくさん来てたぞ。♪」


「ふんふん。
 牧師先生の説教は?
 どんな話だった?」


「キリストの話だった。」


「それはそうだろうさ。
 キリストのどんな話だった?」


「いろいろだ。
 昼にカレーライス食べた。
 うまかったぞ。♪♪」


じじ、いいなぁ。
教会のカレーライス、
私はもうずっと食べてない・・・・・・(T。T)

自分を変える決断(ルカ4:16~21)

2007-12-10 05:08:59 | ルカ
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


イエスのメシア(救世主)としての宣教活動の
最初の頃の説教。


イエスは話した通りに行動した。
イエスの使命は貧しい人に福音を告げ知らせる事。
福音とは何か。
福音とは神の無条件の愛である。


自分を貧しい人の立場に置いて黙想してみる。
貧しい人。
貧困に喘ぐ人。
罪に追われている人。
圧迫を受けている人。


イエスはそんな私達を解放し、
自由にして下さる。


ここで英神父様は
イソップ童話の「太陽と北風」の話をされた。
冬に旅人がマントを着て歩いていた。
太陽と北風が競争する。
どちらがあの旅人のマントを脱がせる事が出来るか。
北風がマントを剥ぎ取ろうとして吹けば吹くほど
旅人は寒くてますますマントをぎゅっと握り締めた。
今度は太陽が日差しを送ると
旅人は暑くなって自分からマントを脱いだ。
競争は、太陽の勝ち。


ここで言う"マント"とは何か。


マントは私達の囚われ、執着心を象徴している。
私達はマントを握り締めている。
他人の目には変に見える。
このマントをどうやったら脱げるか、
どうすれば囚われや執着心を手離す事が出来るか。
自分で自分に鞭打って脱ごうとしても脱げない。
そして
他人のマントは気になる。
相手に厳しく辛い事を言って脱がせようとしても脱げない。
イソップ童話の太陽の光に照らされ、
神の愛を受けて温まると
誰でも自分から自然とマントを脱ぎたくなる。


人間は愛に満たされるならマントは要らない。
神の愛とはそのようなもの。


人が着ているマントを強制的に剥ぎ取る事は
するべきではない。
寒いから着ているのだ。
神の愛によって温められれば自分からマントを脱ぐ。
私達の心が何で温まるか。


神の愛。


イエスはその神の愛を伝えた。
私達も神の愛を他の人に伝えていくのだ。


私達は神の愛に信頼して
自分自身の囚われから自由になる。


 ルカ4;21
 この聖書の言葉は、
 今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。


今日、実現した。
今日、イエスの力が表される。
ユダヤ人達はイエスの説教を聞いて
旧約の"ヨベルの年"の実現を思い浮かべたであろう。


ヨベル=恵みの年。
7年に1度の安息の年がある。
7の7倍(49年)、50年に1度、ヨベルの年。
ヨベルには借金が帳消しになる。
貧富の差が無く、
平等な分かち合いの実現する、
皆で助け合う社会を、
イエスは望んでおられた。


貧しい人達にとってイエスの説教は福音だった。
恵みと感じるのは貧しい人達だけ。
しかし、
金持ちにとってはそうではない。
ナザレの人々はイエスの話を受け入れなかった。
"恵みの年"はユダヤ人にとって面白くなかった。
ユダヤ人達に殺されそうになるほど
イエスの説教は過激だった。


イエスの説教は
貧しい人々にとっては福音だったが
金持ちにとってはそうではなかった。
自分の根本的な生き方を変えなければならない。
彼らはイエスを拒否せざるを得ない生き方をしていた。
持っているものは持っていたい、手離したくない、
分かち合いたくないのだ。


結局、
イエスは十字架刑で殺された。


神の愛を実現出来る生き方を
私はしているだろうか。


神の愛を生きていく事は、
一人一人にある囚われを捨てて、
生き方を変えていく事だ。


私は自分を変える決断が出来るだろうか。


イエスを拒絶し、イエスを殺す側に立つ事も出来る。
イエスを迎え入れて
生き方を変えていく立場に立つ事も出来る。


どうだろう。
私は。

自己同一性(ルカ2:41~52)

2007-11-12 14:08:31 | ルカ
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


ヨセフとマリアは毎年過越祭には
一家でエルサレムに旅をしていた。
イエスが12歳の時、
旅の帰り道の途中で3日間も失踪してしまった。
・・・12歳の子供が旅の途中で3日間も・・・(・_・;)
そりゃ、ヨセフもマリアも慌てて探したであろう。
帰りの道程をまた1日かかって探して、
エルサレムの神殿で
学者達と律法についての応答をしていた息子を漸く見つけた。


イエスが学者たちとしていたこのやり取りは、
ユダヤ教の習慣のバールミツバという、
いわゆる成人式がもとになっていると言われている。
成人とは、ユダヤ教の中では律法を理解しているという事。
ラビが律法についての質問をいろいろして、
それに答えられれば成人男子と認められる訳だ。
イエスの場合は、
12歳の少年では考えられないくらい深い律法理解だったので、
ラビたちが驚いて延々と3日間も話をしていた。


そこに父親と母親がやって来た。


「なぜこんなことをしてくれたのです。
 御覧なさい。
 お父さんもわたしも心配して捜していたのです」
            (ルカ2;48 新共同訳)


母マリア、怒っているであるよ。
イエスは心配して探しに来た母親に言った。


「どうしてわたしを捜したのですか。
 わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、
 知らなかったのですか。」
              (ルカ2;49 新共同訳)


放送の中で英神父様はこの場面について、
少年イエスの成人式であったと語る。
自分が一体誰であるのかを、イエスが悟った瞬間。
神殿を「自分の父の家」と呼んでいる。
ここでイエスの言っている「父」とは父なる神。
イエスは父なる神との関係の中で
子としての自分という者を悟っていた。
アイデンティティを確認したという意味で、
やっぱりこれは成人式であると英神父様は言う。


成人式。
キリスト者としての自分の事として考えるとどうだろう。
私自身は父なる神と自分との関係をどれだけ理解しているだろう。
聖書だって、どれだけ理解しているだろうか。
父なる神との関係において
私はどれだけ自分という者を見い出しているだろう。
12歳の少年イエスはこの時既に成人だったが
年齢だけで中年過ぎた自分は
父なる神と自分自身との関係において成人といえるだろうか?


放送の中で英神父様はもう一つ、
別の視点からこの場面を提示している。
イエスにとってヨセフは本当の父親ではない。
イエスは、
ヨセフが自分の父親ではない事をいつ知ったのか。
それを知った時のイエスの気持ちはどうだったのか。
少年イエスの心の中の動揺、
誰が自分のお父さんなのかという問いは、
かなり深刻なテーマであったと思われる。
そのようにこの箇所を読むと、
イエスが神殿で
「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」
と言った言葉には別の響きが入って来る。
12歳の時に神殿の中で、
自分の父は神様だと少年イエスは悟った。
これがイエスのアイデンティティの
根本的なものだということになる。


それを私達に問い返してみるなら
全ての人が父親と母親から良いものも悪いものも受け継いでいる。
しかも様々なトラブルを背負って生きている現実が私達にはある。
それをどう受けとめて自分のアイデンティティを、
自分が自分であるという事を
どのように確立するかという問いがある。


だから私達はイエスと同じように、
両親を超えるものの中で自分自身を発展させていく。
私達にとっての霊的な成人式が必要であり、
それは神様と自分との関係の中で答えを見つける事。
どのように愛されたか、どのように傷を負ったか、
それは一人ひとり違うが、
父親と母親を超えるもっと大きな愛の存在、
そのもっと根本的なものは神から来る。
何故かとうと私達は神に造られた存在だから。
私達は神から生まれ、神に育てられた。
神が本当の親であって、私達は神の子供である。
それが私たちの根本的なアイデンティティである。
ルカのこの場面でイエスがその事を悟った。
だからこそ私達もそのようなアイデンティティを持つことができる。
過去の境遇に嘆く必要性はない。


この後にイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、
両親に仕えてお暮らしになった。
彼は自分は何者であるかということがわかったからこそ、
自由な大人として、両親を尊敬して暮らすことができた。
そのように私達も、
神様から生まれ
神によって生きているという根本的な事があるからこそ、
神様を黙想し、
そこに自分の基盤をおいて、
家族に仕えて愛し合っていける。
そこに私たちの本当の命と喜びが溢れてくる。


神においてこそ、私達は本当の自分を見つけることができる。
神においてこそ、私たちは本当のおとなとして、
一個の人間として生きる事ができる。


この放送を聴いて
自分自身についてしばらく考えた。
それについてはまだ書きたくない。
今も考えている。