今日も日勤の後にじじ宅にてマルコを読んだ。
聖書を開く前に、
いつものように主の祈り。
じじは私がA4の紙に手書きした主の祈りを手に取り、
声に出して朗読する。
ところどころ噛んだりつっかえたり読み損なったりする。
私が珈琲の湯を沸かす間、
じじは3回主の祈りを朗読した。
突然じじが
主の祈りを書いた紙を見てぽつりと言った。
「これ、
見ないですらすら言えるようになったらいいなぁ。」
焦る必要は全然ないよ。
まだ今日で4回目だし、
たった4回にしては上出来だと思うよ。
じじはまだ
諳んじて祈るという余裕もなく
小学生の国語の授業のように音読するのが精一杯だ。
もちろん
主の祈りの一字一句の意味を
私は掘り下げて説明などしていない。
本当は主の祈りの中身をもっと詳しく
話してやる方が親切かも知れないけど、
一度にあれもこれもするのは私には無理。
じじにとっても
詰め込み教育みたいになってしまいかねない。
私の出来る範囲で出来るところまで
仕事帰りの時間を1、2時間裂いて
一緒に聖書を読んで分かち合う事と
一緒に主の祈りを唱える事を
じじが自分の日課とするところまでを目標に
地味に進もうとしている。
じじの願いは近いうちに叶えられるよ。
主の祈りをすらすらと
自分の口で唱える事が出来るようになったら
すごいよ。じじ。
礼拝で教会の皆が主の祈りを唱える時、
今まではぼーっと蚊帳の外にいたのが
皆と一緒に主の祈りを唱える事が出来るようになるんだよ。
祈りの輪の中にじじも入る事が出来るのさ。
受験生みたいに暗記する事は全然重要ではないし
覚えたからといって偉くなれる訳でもない。
でもこれは大事な祈りだよ。
主の祈りを皆と一緒に唱えて
神様に向かって皆と一緒に心を合わせる事が大事なのさ。
「これ、
見ないですらすら言えるようになったらいいなぁ。」
「大丈夫。
すぐ覚えられるよ。」
「どうだかなぁ」
「何回も唱えているうちに自然と覚えられるよ。
日課にしたらいいよ。
朝、目が覚めた時と
夜、寝る前と、
一日3回食事の前には必ず主の祈り。
これだけでも一日5回。
一ヶ月、一年と続けて
来年の今頃は、教会の礼拝の時には
紙なんか見ないですらすら
自然と言葉が出て来るようになるよ。」
「そうかなぁ」
「弟子達も祈り方がわからなかった。
それでイエス様が教えて下さったのが
この祈りだよ。
主イエスが教えて下さったから
"主の祈り"なんだよ。」
「へぇ~」
じじ、
明日、私は遅番の仕事で夜は来られない。
じじが教会に着く頃に私は出勤する。
教会に行って皆に会って来てよ。
よろしく伝えて来て。
「うむ。
わかった。」