後期シルバーの戯言

一寸した日常生活・身辺雑記と旅日記

飯綱町花めぐりと「善光寺分身仏」拝観

2015年04月29日 | 近隣の史跡・名勝巡り

4月25日飯綱町観光課主催の「花巡り」と「善光寺分身仏」拝観のバスツアーに行って来た。参加者23名牟礼駅10時観光課職員の案内で出発。
最初に「いいずな歴史ふれあい館」に行く。

*「いいずな歴史ふれあい館」
  館の学芸員の説明で飯田市の元善光寺の他に、飯綱町に善光寺が長野に建立される前の一時期、町内芋川に「元善光寺」があったという伝説
  があるという。
  今年の長野善光寺御開帳を機会に「芋川の元善光寺伝説」を紹介する健翁寺所蔵善光寺分身仏特別公開特別展を企画したそうだ。
  富峰山健翁寺所蔵の「木造善光寺如来像(善光寺分身仏)増高40.5cm光背台座を含め総高91cmの他、数々の飯綱町指定有形文化財等が
  展示されていた。ふれあい館のパンフレットには伝説の概要や展示品が紹介されている。

*花めぐり
  次に案内されたのは県道37号線長野信濃線坂中トンネル飯綱側出口にある地蔵久保のオオヤマザクラと、そこから東に2~3Km離れた袖之山
  のシダレザクラだ。共に長野県天然記念物である。丁度満開だったが袖之山シダレザクラはすこし色褪せていた。

       
       地蔵久保のオオヤマザクラ                         袖之山のシダレザクラ
    樹高20mにもなる巨木、紅の濃い鮮やかな桜。            樹齢300年以上と伝えられる巨木の桜、枝振りが見事。

*昼食
  昼近くになり町営のアップルミュウジアムで、地元の主婦の作った箱膳の昼食を摂る。

 

            

 ←箱膳;戦前昭和の初期田舎で使用した食器と同じだ。畳の間で座って食する場合は、
    箱の上に蓋を置いても高さがあうが、テーブルの場合は高くなるので箱をかたずけ 
    て食事をした。
    

昼食後、長谷寺・願法寺と回った。

* 玉林山観音院長谷寺 宗派;浄土宗 本尊;木造阿弥陀三尊像 
  普通は「はせてら」というが、この寺は「ちょうこくじ」というのだそうだ。住職が善光寺分身仏の由来を説明してくれた。

          
             長谷寺 回向柱                              本堂で善光寺分身仏の住職の説明   

        
            長谷寺 山門                                    長谷寺の善光寺分身仏

*枕石山願法寺 宗派;浄土宗 
  壇家が十数軒で寺の運営が大変だそうだ。

        
          願 法 寺                                   願法寺の本尊

*健翁寺
   善光寺分身仏や、その他の寺宝が「ふれあい館」に展示されているので、寺院には回らなかった。

*三寺の善光寺分身仏
   今回のツアーのパンフレットよりコッピーしました。

     
    

予定通り願法寺参詣後牟礼駅に直行14時過ぎ到着解散となった。

参考;「健翁寺安置霊仏略縁記」が伝える元善光寺伝説のあらまし(「いいずな歴史ふれあい館」パンフレットより要約)
   欽明天皇13年日本に仏教をもたらした最初の仏像(善光寺如来)は、信濃国伊那郡麻績の人本田善光によって麻績に運ばれ(これが飯田市
   の元善光寺)41年間そこにあった。その後お告げにより善光は如来を水内郡「芋井郷」へ移した。善光は如来とともに芋川にいたのは27年
   間である。この間に善光の息子善佐が急死した。閽磨大王の裁きで地獄へ落とされそうになっていた善佐は、両親の祈りと如来の働きかけ
   によって蘇生を許され、同じく地獄へ落とされそうになっていた皇極天皇ともども蘇生した。喜んだ皇極天皇は如来を崇拝し、やがて長野
   の地に伽藍を建設した。これが現在の善光寺である。如来のいた芋川の地に浄泉院が建てられ山崩れで埋没、土中から掘り出された銅仏観
   世音を本尊として浄泉院を再建。真言宗から天台宗にかわり、そのご延宝元年健翁寺と改め曹洞宗寺院となった。


 

 


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