だんなっちょんのブログ

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甲斐性無しの二児の父

4月24日日記 親子遠足 

2016-04-24 00:06:48 | 子供・育児
最近子供と接するとき「一生に一度」「二度とこの瞬間は無いから大切に」
とか思うようになった。これはおそらく死期が近く、数年以内にくたばる人間のメンタリティだ。
死は怖いが、いつかは人は死ぬ。大事なのは死ぬ瞬間まで自分の存在をいかに残せるかだ。
私の存在と私の言葉を1ミリ・1語だけでも誰かに残せるなら、私の存在意義は無いことにはならない。
死ぬ瞬間何を言おうか、何を残そうか、具体的まではいかなくても漠然とその青写真を
たまに描くことは少なくない。
私は若干30代にして死のことを考えるようなとるに足らない存在だが、
ありがたいことにも妻と子宝に恵まれた。
そしてそんな私にも今回子供遠足に同行できる機会をいただけた。
この日は会社がある日だったが、社長に頭を下げて仕事に遅刻してしまうことに対する
お詫びとお願いをした。心ある社長にめぐり合えたせいもあり、快諾を頂き
「授業に間に合えばいいから、気にせず子供と接してきなさい」という
ありがたい心遣いまでもらった。

基本的に人を信用せず、人に頼ってはいけないという卑屈なメンタリティしか
持ち合わせたないが、たとえ偽善でも表向きであっても、こうやって
気を使ってもらえることは幸せなこと。
たかが遠足である。だが、よくよく思えば『長男坊3歳の人生最初で最後の遠足』
と思うと蔑ろにできない。出ないと後悔する気が強くなる。

なんて張り切って行っておきながら、大半が「はぁー疲れた疲れた」といった
無味で愚鈍な感想しか出てこないのはいつものパターンだが、
今回はちょっとうれしい遠足になった。

今回は別のお子様の男の子の面倒をみることになった。
これがまたよくなついてくれる。私が姿をくらますと探してくれるし
私に抱っこまで催促する。こんな経験できるとは思わなかった。
後にも先にも自分の息子以外だっこしたり、遊んだりすることは
「たぶんないだろうな」と思っていたのだが、どういうわけかやたらと私になつく。
遠足先は遊園地だったのですが、私が彼を抱っこしていて
乗り物乗るとき彼の母親に「ママと乗ろう」と言って、ママに渡すと
大泣きする始末。仕方なくこの乗り物もそうだが、その後
彼につきっきりで面倒を見ることになった。
自分の息子より3キロほど重く、抱き心地も違う。
これがまた新鮮で心が温かくなった。

彼はお別れするまでずっと私に抱っこを催促し、
帰りのバスまで横にくっついて、疲れ果てた私が寝ようとすると
一生懸命「ねちゃだめ」と起こすのである。
その後私にくっついて寝てしまうから可愛くて仕方ない。

それと同時に私は頭の中で考えて、自分を「認める」結論にまで至った。
私は自分自身を「血の涙もない冷徹なクズに近い人間」と思うぐらいだったが
案外そうでもなかった。
彼を抱っこしながら、自然と自分の息子と接するような言葉が出るのである。
あまりにもなつくから、しっかり抱きしめ愛おしくも思うほどになったのである。
そこで頭の中で妄想したのが、「もし血のつながらない人間を養うことになったら
お前はどうする?」となったら、私はたぶん養える人間になれるかもしれないと
思ったからである。

子供は例外なく可愛い。そしてそれには血のつながりは関係ない。
2人目に恵まれるであろう立場の人間に「血のつながりのない子供」を
養う機会なんかおそらくないであろうが、この心の温まりときたらどうだ。
自分の人生や価値観を少し見直した。
彼を抱っこしながら、あたかも自分の息子のように愛おしく
そしてかけがえのない存在と『錯覚』にまで陥ることになったのだから。

そういう意味でとても価値のある1日になった。
彼のママには大変申し訳ない妄想に耽ってしまったことをお詫びしたい。

ちなみにわが息子は相変わらずフリーズドライでわが道を行く。
誰が抱っこしようが、ほっとこうが園内を走り回りどこ吹く風
自分の欲望ばかり満たそうと1日中ほえて暴れて騒いで・・・
まぁ確かに俺や妻の子だわ・・・・。とても自由でドライである(唖然
私みたいに大人になって「情愛ある人間か否か」のハザマで苛まれる人間にならず
若いうちから愛と情愛を持った人間に育っておくれ・・・。頼むから。