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江戸の町はどのように造られたのか?徳川家による江戸城の天下普請と城下町づくり

2025-07-26 06:57:05 | 徳川家康

江戸の町はどのように造られたのか?徳川家による江戸城の天下普請と城下町づくり

天正18年(1590年頃)の江戸は交通の要衝でしたが、小さな地方都市に過ぎませんでした。 その後、徳川家4代にかけて江戸城下町が建設され、100万人以上の人々が暮らす大江戸八百八町へ発展します。 今回は、江戸の町がどのように発展したのか、徳川家による江戸づくりと天下普請について解説します。

▼もくじ▼

00:00 動画の概要 00:42 戦国時代までの江戸 03:57 家康の江戸開発 07:00 将軍家康の天下普請 11:12 秀忠と家光の天下普請 15:11 江戸の水運と上水道 20:29 防災都市への転換と市街地の拡張

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▼主な参考書籍▼ 鈴木 理生,鈴木 浩三『ビジュアルでわかる 江戸・東京の地理と歴史』(日本実業出版社、2022) https://amzn.to/3yXUvfC 竹内 誠(監修)『一目でわかる江戸時代―地図・グラフ・図解でみる』(小学館、2004) https://amzn.to/48RXEdT 鈴木 理生『江戸はこうして造られた』(筑摩書房、2000) https://amzn.to/3VjVk9M

この YouTube の資料は、徳川家による江戸の発展の歴史を詳述しています。1590年に家康が江戸に入府した当初は小さな漁村であった江戸が、4代にわたる徳川将軍家の大規模な都市開発によって、18世紀初頭には人口100万人を超える世界有数の大都市へと変貌を遂げた過程をたどります。特に、飲料水の確保、塩の供給、そして**「天下普請」と呼ばれる大規模な土木工事を通じて、江戸城の築城、堀や運河の整備、埋め立てによる土地の造成、そして明暦の大火後の防災を考慮した都市再建と市街地の拡大がどのように進められたかが、具体的な工事内容やその目的とともに解説されています。さらに、江戸の町が水運を最大限に活用した物流拠点**として機能し、人々の生活を支えていた様子も描かれています。


Q 徳川家康はどのように江戸の都市計画を構想し、実現していったのか?

A 徳川家康は、豊臣秀吉から関東への国替えを命じられ、天正18年(1590年)8月1日に江戸に入府しました。当時の江戸は、交通の要衝ではあったものの、まだ小さな地方都市に過ぎませんでした。家康が江戸を本拠地とすることを望んだ背景には、関東の中心に位置し陸上・海上交通の要衝であったこと、関東支配および東北への警戒に適した場所であったこと、物資の大量輸送手段として水運を最大限に利用できる地形であったこと、そして江戸城の周囲に開発可能な広大な土地が広がっていたこと、といった条件が揃っていたことが挙げられます。
家康は、江戸を大規模な都市へと発展させるための都市計画を構想し、以下の段階を経て実現していきました。
入府初期の江戸開発(1590年以降)
1. 飲料水の確保 江戸城下は海がすぐ近くまで入り込んでおり、井戸を掘っても塩分が強く飲料水には適しませんでした。そこで家康は、まず飲料水の確保を最優先課題とし、城の周りの河川を堰き止めて貯水池を造りました。これが現在も皇居のお堀として知られる血ヶ淵と牛ヶ淵です。さらに、急増する人口に備え、大規模な浄水道の整備にも着手しました。これが江戸最古の浄水施設である小石川上水で、後に拡張されて神田上水へと発展し、神田や日本橋など市内の北東部一帯に給水されました。
2. 塩の確保と水運の整備 当時の塩は生活必需品であり、軍事的にも重要な戦略物資でした。家康は、江戸の近くに位置する行徳が関東最大の塩の生産地であることを知り、江戸城下と行徳を直結する運河の改作に着手しました。この工事によって、江戸前島の付け根を横断する水路である道三堀が作られました。道三堀の工事と並行して、小川と新川という海沿いの運河も開かれ、これにより江戸と行徳は水運で結ばれました。また、道三堀の改作工事では、日比谷入江に流れ込んでいた平川の付け替え工事も行われ、これは日比谷入江の埋め立てを前提としたものでした。
3. 江戸城の大規模改修の延期 入府当初、家康は豊臣秀吉の側近として九州の名古屋城や伏見城の築城などに動員されており、秀吉の意向で国替えの可能性もあったため、江戸城の大規模な工事は先送りされました。本格的な江戸開発は、家康が天下人となってからとなります。
将軍就任後の「天下普請」による本格的な都市建設(1603年以降)
慶長8年(1603年)2月、徳川家康が征夷大将軍に就任し江戸に幕府を開くと、家康は天下普請によって江戸城の大増築を実施することを発表しました。天下普請とは、将軍が支配下の大名に対し、城や都市、寺社の築造、治水などの土木工事を命じる「お手伝い普請」のことで、大名は石高に応じて人夫や資金を出す必要がありました。これは、天下人が配下の大名を支配する手段の一つでもありました。
1. 第一次天下普請(慶長11年/1606年3月1日開始) 主に以下の3つの工事が行われました。
    ◦ 日比谷入江の埋め立て: 城下町建設のための用地造成と、大航海時代初期の外国船の入港を防ぐ安全保障上の理由から行われました。埋め立てには江戸城工事で出た残土や本郷台地の神田山を切り崩した土が用いられました。
    ◦ 江戸城の増築: 西国の34家の大名が担当し、本丸、二の丸、北の丸の城郭が建設され、日比谷入江の埋め立てと並行して江戸を囲む外堀の改作や石垣工事が進められました。築城の名手と謳われた藤堂高虎が縄張り(基本設計)を担当しました。
    ◦ 天守閣の築造: 家康によって慶長天守が建築されました。これは大天守と2つの小天守を多聞櫓で結んだ連立式天守で、要塞機能が備わっており、豊臣勢との戦いを想定していたことが伺えます。東北の10家の大名が建築工事を命じられました。
    ◦ 城下町の整備: 慶長8年(1603年)には道三堀の東側に豪華な木製の橋である日本橋が架けられ、五街道の起点となりました。通り町筋と呼ばれる南北に通じる大通りも作られ、五街道につながる道も整備されていきました。
2. 第二次天下普請(慶長19年/1614年3月1日開始) この普請の準備として、建築資材を揚陸するための船場である船入り堀10本と八丁堀船入りが江戸前島の東岸に建設されました。実際の工事では、本丸や西の丸などの石垣工事、日比谷入江と江戸前島の再整備、大名小路や西の丸下の造成が行われました。城下町では、旧石神井川の付け替えのために神田川の原型も作られています。しかし、豊臣家と徳川家による大阪の陣が迫ったため、約半年ほどで中断することになりました。この普請では、豊臣との決戦を前に、関係性を明確にするとともに、経済的・軍事的に疲弊させる目的も指摘されています。
家康の死後も、二代将軍秀忠、三代将軍家光へと天下普請は引き継がれ、江戸城の総構えがほぼ完成し、江戸の街は防災都市への転換や市街地の拡張が進められていきました。このように、徳川家康は、地理的優位性を活かし、飲料水・塩の確保といった生活基盤の整備から、城郭の強化、さらには天下普請という大名統制の仕組みを最大限に活用することで、未曽有の規模で江戸の都市計画を構想し、世界有数の大都市へと発展させる礎を築き上げました。


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