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週刊 日本の100人 第64号 大隈重信

2019-09-13 05:15:09 | 歴史関連情報
週刊 日本の100人 第64号は、大隈重信です。



 早稲田大学(当時は東京専門学校)の創立者で、内閣総理大臣までやりながら、今ひとつ影の薄い印象がありませんか?

 ひょっとすると、福沢諭吉、板垣退助、伊藤博文や岩倉具視はお札としてと使われたが、大隈重信はお札になってないからではないでしょうか。

 かつて、伊藤博文の肖像が紙幣になった時、韓国から猛烈な抗議があったと聞いていますが、その意味では、政治家をお札にするのは難しいかもしれません。

 大隈重信をお札にすると、中国から抗議を受けることは必至です。
 対華二十一ヵ条の要求をした時の総理だからです。

 ここで、簡単に振り返ってみましょう。

天保9年2月16日。肥前佐賀藩士大隈信保の長男として誕生します。
長崎でフルベッキに英学を学びます。これが、後の早稲田大学を創る原点といえるでしょう。
維新後、明治政府の徴士参与職、外国官副知事、大蔵卿、参議などを歴任します。
電信の開発、鉄道敷設、学制、秩禄処分、地租改正、殖産興業などを推進します。

まさに、明治政府の新政策の推進役でした。

しかし、薩長閥との対立から、明治十四年の政変で官職を追われます。
それでも負けてはいません。翌年、立憲改進党を結成し、総裁となります。
東京専門学校(現早大)を創立したのもこの頃です。

21年、第1次伊藤内閣、ついで黒田内閣の外相となり条約改正にあたりますが、反対派の来島恒喜に爆弾をなげつけられ右足を失いました。

31年には、板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織します。

大正3年第2次内閣を組織して第一次大戦に参戦、4年には対華二十一ヵ条要求を提出しました。

大正11年1月10日、85歳で死去。国民葬には、参列者が30万人いたそうです。


■特集
大隈重信
 若い人は高尚なる理想をもたなければならぬ

■ライフ&タイム
 日本近代化の推進者が政治と教育に捧げた84年
  幕末を駆ける佐賀の異端児/明治新政府で頭角を現す
  失脚と新たなる始まり/苦難の条約改正交渉
  大衆の期待を背負って

■ヒューマンエピソード
 きずなを大切にする温厚篤実な世話好き

■クローズアップ
 大隈追放劇の裏側とは? 詳説「明治14年の政変」

■人物スクランブル
 大隈重信 人物相関図
  江藤新平/小泉八雲/伊藤博文/白瀬 矗

■後世への遺産
 早稲田の父が残した円、鉄道、私立学校……

■評伝アラカルト
 大隈重信考
  高田早苗/鳥谷部春汀/尾崎行雄
  勝 海舟/八幡和郎/山県有朋

■ビジュアル人物事典
 道鏡/道元/東郷平八郎/東条英機
 藤堂高虎/東福門院/頭山 満/常盤御前

■日本の100人ミュージアム




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