【衝撃!真実の関ヶ原】最新の日本史に愕然!これまではなんだった?関ヶ原の戦いがここまで創作とは‥。関ヶ原の戦いの実像に迫る「新説!関ヶ原の戦い」シリーズ最終章!「関ヶ原本戦へ。残された数々の謎」
天下分け目の戦い・関ヶ原は段階的に創作されたフィクションだったー。よく聞く通説は嘘ばかり!当時の人が残した手紙や日記などの同時代史料・いわゆる1次史料を基に、歴史研究者が関ヶ原の戦いに関する検証・解読が進んでいます。同時に新たな史料の発見などから次々と歴史の真実が解明され、その結果これまで知られてきたストーリーが実は史実ではなかった可能性が高いことが明らかにされてきました。戦いの顚末はもちろん、これまで広く知られてきたエピソードや名場面がことごとく創作で、最新研究により解明された新説が登場しています。最新の日本史を学び直して、歴史の真実を知る楽しみを体感しよう! 歴史ファンのみなさん、お待たせいたしました!近年の研究で明かされた事実を、このシリーズでぜひご堪能ください!新説「関ヶ原の戦い」シリーズ全3回の最終章です。今回も様々な史料から、歴史研究家の市橋章男がみなさまを歴史ミステリーにお連れいたします。^^ つくられた物語より、歴史の真実を知る楽しみ。歴史は生きている。みなさんが学校で学んだときよりも、日本史は大きく進化しています。
この YouTube の歴史番組は、関ヶ原の戦いの通説に異論を唱えるものです。番組では、加藤清正が関ヶ原の戦いに参加しなかった理由や、徳川家康が豊臣家臣の動きを信用していなかったこと、また家康への宣戦布告が石田三成一人によるものではないこと、そして小山評定が実際には存在しなかった可能性について新たな解釈を提示しています。さらに、真田昌幸・信繁親子の離反が妻たちの関係によるものであるという興味深い視点も提示し、徳川秀忠の関ヶ原本戦遅延が真田家との交戦が原因ではないという点も考察しています。番組は、通説とは異なる事実や解釈を通じて、関ヶ原の戦いの実像に迫ろうとしています。
Q 歴史研究における「新説」の出現は、これまでの歴史認識にどのような影響を与えているか?
A 歴史研究における「新説」の出現は、これまで広く認識されてきた歴史像、特に江戸時代以降に形成されたり、ドラマなどで描かれたりしてきた内容に大きな見直しを迫り、より多角的で複雑な実像を明らかにする影響を与えています。
具体的には、以下のような点で影響が見られます。
• 徳川家康の戦略と豊臣系大名の関係性の再評価
◦ 加藤清正や黒田官兵衛が関ヶ原本戦に参加しなかった理由の解明:これまでの認識では、彼らが参加しなかった明確な理由が不明確だったかもしれません。新説では、家康が彼らを意図的に本戦に参加させなかったと考えられています。特に加藤清正は豊臣家への人望が厚く、秀吉に幼い頃から育てられたため、もし豊臣秀頼が関ヶ原の戦いの途中で現れた場合、清正が秀頼側につくことで、家康に味方していた豊臣系大名が全て秀頼側へ寝返る可能性があったと家康が危惧していたためです。黒田官兵衛も隠居していたとはいえ、家康は完全には信用していませんでした。これは、家康が豊臣系大名を最後まで信用しきれず、潜在的な脅威として認識していたという、より現実的で複雑な戦略的判断があったことを示唆しています。
◦ 徳川秀忠の遅延の真の理由の解明:秀忠が関ヶ原に遅れた原因は、これまで真田昌幸・信繁親子による上田城攻めでの「大敗」が原因だとされてきました。しかし新説では、上田城攻めは実際には数回の小競り合いに過ぎず、大敗はしていなかったとされています。遅延の主たる原因は、家康の作戦方針の転換(秀頼出現への不安から秀忠を急遽呼び戻した)悪天候による川の増水だったと考えられています。江戸時代の資料では徳川軍の大敗を記すことで、徳川にとって「かっこいい話」として誇張された可能性が指摘されています。これにより、秀忠の遅延が真田氏の軍事的手腕というよりも、家康の戦略的判断と自然条件に起因するという見方に変わりました。
• 歴史上の人物の行動原理や背景の深掘り
◦ 石田三成による「内府違いの条々」発布の真実:ドラマなどでは、家康の罪状を挙げた「内府違いの条々」を石田三成が単独で発布したと描かれることが多いです。しかし新説では、これは三成が一人で行ったものではなく、まず前田玄以、長束正家、増田長盛の三奉行が発し、その後に三成が正式に加わったとされています。これにより、三成の役割が単独の首謀者から、複数人の奉行の一員へと変わり、歴史の「面白さ」のために事実が脚色されることがあるという視点が提示されています。
◦ 真田氏の東西分裂の動機の再解釈:これまで真田昌幸・信繁親子が西軍に、信之が東軍についたのは、**いずれの陣営が勝利しても真田一族が存続できるようにするための「戦略的な離反」**という格好良い物語として語られてきました。しかし新説では、その主な理由として、昌幸の奥さんが石田三成の奥さんと姉妹の関係にあったこと、信繁の奥さんが大谷吉継の娘であったことなど、妻側の姻戚関係が大きく影響していた可能性が指摘されています。これは、個人の人間関係や家族の絆といった側面が、大名の戦略的判断に影響を与えうるという、より人間的な動機を示唆しています。
• 重要な歴史的会合の有無に関する見直し
◦ 「小山評定」の実施の有無に関する議論:関ヶ原の戦いの東軍結成において重要な役割を果たしたとされる「小山評定」については、福島正則が家康への忠誠を誓い、他の大名もそれに続いたという逸話が広く知られています。しかし新説では、当時の記録が乏しいことなどから、実際にそのように行われたかは疑問視する説も存在しています。ただし、徳川の家臣ではない豊臣系大名がまとまるためには何らかの合意形成が不可欠であったという意見もあり、全くなかったとは言い切れないものの、その具体的な内容や形式については再検討が進んでいます。
これらの新説は、従来の**「英雄的で分かりやすい物語」から一歩踏み込み**、当時の人々の心理、政治的駆け引き、情報操作、そして偶然の要素など、より複雑で生々しい歴史の側面を明らかにすることで、私たちの歴史認識に奥行きと多角的な視点をもたらしています。それは、「かっこいい」物語の裏に隠された**「真実」を探求する歴史研究の醍醐味**を示していると言えるでしょう。
Q 主要な合戦における武将たちの行動は、どのような要因によって選択・決定されたのか?
A 戦国時代の主要な合戦における武将たちの行動や選択は、様々な要因によって決定されました。特に、関ヶ原の戦いにおいては、以下のような要因が複雑に絡み合っていたと考えられます。
• 徳川家康の戦略的判断と豊臣系大名への不信感
◦ 家康は、関ヶ原本戦において、特定の豊臣系大名を意図的に参戦させませんでした。これは、彼らが豊臣秀頼への忠誠心が強く、もし秀頼が挙兵した場合、自らの味方となっている豊臣系大名が裏切って秀頼側につく可能性を恐れたためです。家康は、豊臣系大名を最後まで信用していなかったと考えられます。
◦ 加藤清正:豊臣家臣の中でも人望が厚く、リーダーシップがあったため、家康は彼が秀頼側につくことを恐れ、関ヶ原の本戦に参加させませんでした。表向きの理由としては、佐磨藩との内輪揉めを起こしたことで、家康の総無事令に違反したとして謹慎処分としたとされています。
◦ 黒田官兵衛:隠居しているという理由で本戦に参戦させず、息子が参戦しました。これも、清正と同様に強力な大名を本戦から遠ざける意図があった可能性があります。
◦ 浅野長政:江戸留守役として置かれました。これも家康が彼を恐れたため、とされています。
◦ 徳川秀忠の関ヶ原遅延:秀忠が上田城を攻めた際に遅延した原因は、真田昌幸の挑発に乗って戦闘状態に入り、上田城が予想以上に堅固であったことだけでなく、家康の作戦方針の転換による急な参陣命令が主な要因でした。家康は豊臣系大名の動きを信用できず、もし秀頼が出てきた場合に劣勢になることを恐れ、急遽秀忠に合流を命じたと考えられています。また、道中の悪天候(川の増水)も遅延の一因となりました。
• 人間関係と血縁・婚姻関係
◦ 真田氏の東西分裂:真田昌幸・信繁(幸村)が西軍に、信之が東軍についたのは、一族存続のためというよりも、妻たちの関係、つまり婚姻関係が大きく影響していました。
▪ 信之の妻(小松姫)は本多忠勝の娘(家康の養女)であり、東軍につく要因となりました。
▪ 昌幸の妻の姉は石田三成の妻であり、西軍につく要因となりました。
▪ 「レディファースト」という表現で、奥さんの意思が夫の選択に影響を与えた可能性が示唆されています。
◦ 家康は、金銭的な約束(例えば30万石の恩賞)で結ばれた相手は、より高い報酬(例えば40万石)を提示されれば裏切る可能性があると認識していました。これは、物質的な条件で人間を縛ることの限界を理解していたことを示しています。彼は自身の家臣に対する信頼とは異なり、豊臣系大名への不信感を持ち続けていました。
• リーダーシップと信頼
◦ 家康の関ヶ原での勝利の要因の一つとして、彼自身の家臣たちが信頼できるリーダーであったことが挙げられています。家康は自身の家臣に対しては「家(徳川家)」のために命を捧げるような忠誠心を重んじ、彼らの給与が低くても不平不満が少なかったとされています。
◦ 一方、加藤清正のように人望が厚く、豊臣家への忠誠心が強いリーダーは、家康にとっては脅威となり、その影響力を排除しようとしました。
• 合意形成の必要性
◦ 関ヶ原での東軍の結束には、合意形成が不可欠でした。小山評定が実際にあったかどうかは諸説ありますが、徳川の家臣ではない豊臣系大名たちが家康の命令だけで動くことは難しく、何らかの形で合意が形成されたと考えるのが自然だとされています。山内一豊が掛馬(領地の安堵を記した書状)を差し出したことが結束につながったとも言われています。
• 史実の創作と歪曲
◦ 歴史上の出来事は、後世のドラマや文献によってドラマチックに脚色されたり、真実がねじ曲げられたりすることがあります。
◦ 例えば、関ヶ原での「内府違いの条々」は、ドラマでは石田三成が作成したとされていることが多いですが、実際には三成が加わる前に三奉行(前田玄以、長束正家、増田長盛)によって発せられていました。
◦ また、小山評定についても、江戸時代の資料では大規模な会合として描かれているものの、現代では実施されなかったとする説も存在するなど、後世の創作が含まれる可能性が指摘されています。
◦ 徳川秀忠の上田城攻めについても、江戸時代の資料では徳川軍が大敗したとされているものの、当時の資料では小競り合いが記される程度であり、誇張された物語であると考えられています。これは、徳川の正当性や家康の采配を強調するために、困難な戦いを乗り越えたという話にする必要があったためとされます。
このように、主要な合戦における武将の行動は、単なる戦術的判断だけでなく、個人の性格、人間関係、政治的駆け引き、そして後世の歴史観による影響など、多岐にわたる要因によって複雑に形作られていたと言えるでしょう。
Q 史料の解釈や伝承が、どのように歴史的な物語や認識を形成してきたのか?
A 史料の解釈や伝承が歴史的な物語や認識を形成してきた過程は、提示された情報からも興味深く読み取ることができます。特に、関ヶ原の戦いに関する従来の認識が、新たな視点や史料の再解釈によってどのように変化するかが示されています。
以下の点が、史料の解釈や伝承が歴史的な物語を形成してきた方法を具体的に示しています。
• 豊臣系大名の不参加と徳川家康の意図の解釈の深掘り
◦ 従来の認識(示唆される): 加藤清正や黒田官兵衛といった有力な豊臣系大名が関ヶ原本戦に参加しなかったことは、単に留守番や引退のため、あるいは彼らが徳川方に完全に味方していたためと考えられがちです。
◦ 新たな解釈: 徳川家康は、加藤清正が豊臣家に対する人望が非常に厚く、もし豊臣秀頼が行動を起こせば、彼ら豊臣系大名が秀頼側に付く可能性があったため、あえて本戦に参加させなかったと考えられています。清正は、家康が発した「総事例」(戦争絶対禁止令)に違反して佐磨藩との内紛を起こしたため、家康の怒りを買い、謹慎させられたとされています。黒田官兵衛も隠居していたため、領国に留め置かれました。これは、家康が豊臣系大名を最後まで信用しきっていなかったこと、そして彼らの裏切りを防ぐための深い戦略的思考を持っていたことを示唆しています。このように、個々の大名の行動の背景にある複雑な政治的意図や、家康の疑心暗鬼といった心理描写が加わることで、歴史的な物語に深みが与えられています。
• 「内府違いの条々」の作成者の再検討
◦ 従来の認識: 石田三成が「内府違いの条々」を単独で、あるいは中心となって諸大名に送ったとドラマなどで描かれることが多いです。
◦ 新たな解釈: 実際には、石田三成が正式に西軍に加わる前に、毛利輝元に大阪入りを要請したとされており、この書状は前田玄以、長束正家、増田長盛の「三奉行」によって発せられていました。三成が加わったのはその後のことです。これは、ドラマティックな面白さを追求するために、特定の人物の役割が誇張され、歴史的事実がねじ曲げられることがあることを示しています。
• 小山評定の実在性と目的の議論
◦ 従来の認識: 関ヶ原の合戦が決まる重要な局面として、東軍の諸大名が家康の元に集まり、進退を議論した「小山評定」があったと広く信じられており、山内一豊が掛城を提供するなどのエピソードが語られています。
◦ 新たな解釈: 実際には、小山評定が行われたとされる日付以前に福島正則に反転の命令が下っていたという史料の存在や、同時代の記録がないなどの点から、実際には行われなかったのではないかという説も存在します。ただし、徳川の家臣ではない豊臣系大名たちが合意形成なしにまとまって行動することは考えにくいため、何らかの評定自体はあったと考えるのが自然だという見解も示されています。これは、劇的なエピソードが後世に創り出されたり、史料の不足から様々な解釈が生まれることを示しており、歴史的な物語が形成される過程での「創造性」と「必然性」のバランスを浮き彫りにしています。
• 真田親子の東西分派理由の真相
◦ 従来の認識: 真田昌幸・信繁(幸村)親子が西軍に、長男・信之が東軍に分かれたのは、どちらが勝っても真田一族が存続できるようにするための「かっこいい」策であったと広く伝えられています。
◦ 新たな解釈: 実際には、昌幸の妻が石田三成の妻と姉妹の関係にあったこと、そして信之の妻が本多忠勝の娘で家康の養女であったことが理由であった可能性が高いと考えられています。これは、ロマンチックで英雄的な物語が、より個人的で現実的な人間関係によって覆される例であり、伝承がいかに事実を脚色するかが示されています。
• 第二次上田城攻めの実態と遅延理由の再考
◦ 従来の認識: 徳川秀忠が上田城を攻め落とせず大敗し、関ヶ原の本戦に遅れたことが、その後の秀忠の立場に大きな影響を与えたとされています。
◦ 新たな解釈: 実際には、上田城攻めは数回しか小競り合いがなかった程度であり、徳川軍が大敗したという話は、江戸時代に徳川家康の「誠意」を強調するために、誇張されて作られた物語である可能性が高いです。秀忠が遅れた本当の理由は、家康が豊臣系大名の不信感から急遽、秀忠に上田城攻めを諦めて関ヶ原本戦への参陣を命じたこと、そして道中の悪天候による川の増水であったと考えられています。これは、後世の政治的意図や権力者の都合によって、史実が都合の良いように改変され、英雄的あるいは教訓的な物語として伝承されていく典型的な例と言えます。
これらの例は、「歴史家がまるで見てきたかのように語る」という表現が示唆するように、史料が不足している場合や、特定の意図がある場合に、後世の解釈や創作が加わり、それが「真実」として定着していく過程を明確に示しています。また、**「ドラマとして面白いから」**という理由で史実が歪められることがある点も指摘されており、大衆文化が歴史認識に与える影響も示唆されています。
結論として、歴史的な物語や認識は、単なる事実の羅列ではなく、史料の解釈、語り手の意図、時代の背景、そして人々の興味や関心といった多岐にわたる要素が複雑に絡み合い、形成されてきたと言えるでしょう。