歴史の細道より保科正之 二代将軍秀忠ただ一人のご落胤を紹介します。
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保科正之 二代将軍秀忠ただ一人のご落胤 について紹介しています。
父母の寵愛を受けた弟を自刃に追い込んだ将軍・徳川家光ですから、家光の兄弟の運命は・・・、と思うのですが、もう一人の兄弟、 保科正之のことはとても大切にしていました。
保科正之もその思いを受けとめて、懸命に幕府を支えます。
主なものを並べてみましょう。
・末期養子の禁を緩和し、各藩の絶家を減らした。
・会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とした。
・大名証人制度の廃止を政策として打ち出した。
・玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。
・明暦の大火後、焼け出された庶民を救済した
・町の復興に金を使うべきと、天守の建造に反対した
・大規模火災対策として主要道の道幅を広げるなど、防災性を高めた。
日本史上、屈指の名君との呼び声も高い保科正之でした。
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