北欧スウェーデン の生き方情報 スウェーデン報

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加藤周一のいない国

2008-12-08 13:15:23 | エッセイ
今、メールをチェックすると知人から
「日本は加藤周一のいない国になってしまった」
という一文が届いていた。

加藤周一
世界に通用する日本の頭脳といわれ医学博士であった。
海外の多くの大学で教鞭をとった世界人であった。
そして、反戦活動家であった。
戦争放棄の憲法9条を守る「九条の会」の発起人の一人でもある。

加藤周一の反戦活動は戦争で友達を失ったところに原点がある。
「あれほど生きることを願っていた男が殺された。我にかえると、悲しみではなくて、抑え難い怒りを感じた」
自伝的回想録「羊の歌」の一文である。

私が「羊の歌」を読んだのは高校生のころだ。
憧れの同級生が
「加藤周一の羊の歌、いいよ」と勧めてくれたからという不純な動機である。

当時の私にも戦争はすでに過去の歴史の一部になっていた。
しかし
「生きていればどんな人を愛したのか、どんな仕事をしたのか、どんな音楽を聴いたのか・・・」
という思いは、多感な時期の私には強く共感できるものだった。

しばしばこのブログでも触れることだが、
私は息子の闘病中、多くのファイターたちと出会った。
文字どおり命をかけて病気と闘っている勇敢なファイターたちだ。
そして、その中の決して少なくない何人かが大人になることなく亡くなっていった。
高校で発病して長い闘病生活をしていたT君は移植が成功したとき
「これでぼくも、将来のことを考えていいんだね」と母親に尋ねた。
いつ終わるか分からない自分の人生。ずっと、将来のことを考えないようにして
生きてきたのだった。
移植は成功したのに、あまりに弱っていた心臓は、T君の命を止めた。18歳だった。

9歳のMちゃんは、「お父さんありがとう」「お母さんありがとう」
「お姉ちゃんありがとう」「○○先生ありがとう」「看護婦さんありがとう」
と、身近の人一人一人にお礼を言いながら亡くなっていった。
お礼をいわなければならないのは、あなたの素晴らしい戦いぶりに励まされた
私たちのほうなのに・・・

そうして見送った多くのファイターのことを考えるにつけ、
どんなに無念だったろう。どんなに生きたかっただろう。と思う。

「生きたい人が、生き続けられる世の中」
本当に、そんな当たり前のことが、とても難しい。

先日、娘と母と3代で街中で食事をした。
たまたま、話題が空襲の話になった。
「焼け野原で、我が家からあの建物がはっきり見えたんだよ」
などという会話がきっかけだった。

今いるこの繁華街が学校からの帰り道だったのだけど、
あっちにもこっちにも片づけられない死体がころがっていたのに
不思議と臭いを思い出さないんだよね。
たぶんすごく臭かったと思うんだけど、当時は臭いなんて気になる余裕がなかったんだろうね。

警報がなると校庭に掘った穴にひとりづつ飛び込むんだけど
空襲が終わった後、穴から出てこない友達が必ずいるんだよね。

そんなロシアンルーレットみたいな生活が日常だったころ。

娘は、本気で驚愕した。
「戦争って、すごい昔のことのような気がしていたけど、おばあちゃんが
体験してたなんて。まだ、体験者が生きているほど最近のことなんて。それがショック」

どんな角度から見ても、どんな巧言を駆使しても
「戦争はいけない」
結論はひとつだ。
人殺しのない戦争なんてないのだから。
「生きたいと願う人が、生き続けることができない世の中」
そんな不条理は、許されるはずがないのだ。

加藤周一は「戦争を許してはならない」と声に出して訴えた。
「羊のようにおとなしい沈黙を守ろう」と思うたびに友人のことを考えたそうだ。
それが、「羊の歌」なのだ。

スウェーデンでイラクから逃げてきたクルド人の友達ができた。
「雨の中を夜通し、見つからないように這って山の中を逃げたんだ」
戦争は、過去の話ではない。

日々の不自由ない暮らしの中で、ともすると人は思考停止に陥る。
考えないということは、楽なことなのだ。

でも、考えないところには何も生まれない。
行動しなければ、なにもかわらない。

偉大な頭脳と言われた加藤周一が
最後にそして生涯をかけて歌い続けたのが
「戦争は許してはいけない」という歌だった。

知人の
「日本は加藤周一のいない国になってしまった」
という一文が心に突き刺さる。
89歳だった。