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上野千鶴子の文章より(消費社会のからくりと、所有しない時代へ)

2010年10月04日 | log
  アメリカに着いたとき、私はひたすらサブレットの住宅を探した。サブレットというのは住宅の又貸し制度のことである。アメリカには、自分が住んでいる家やアパートを、何かの事情で留守にする期間に、家具什器類、ときにはペットまで含めて、一切他人に又貸しするしくみがある。時期は、短期は一ヶ月から、長期は一~二年というものまである。夏休みに家族のもとへ帰省する学生から、はては数年間海外出張するビジネスマンに至るまで、このしくみを利用して、借り手をさがす。学生用の一部屋から、庭つきの堂々たる大邸宅に至るまで、サブレットの対象となる。住宅の所有者が別にいる場合、又貸しは所有者にもぐりで行われるわけではない。又貸しの借り手は、一ヶ月でも一ヵ年でも、所有者と正式にサブレットの契約を交わして、留守中の貸し主の家賃負担を肩代わりする。

 私がサブレットの住居を選んだ理由は、第一に自分自身にタビニンさんのアイデンティティを確保しておきたいと思ったことと、第二に、自分自身に帰属するモノを、一切持ちたくないと思ったことであった。期間を限られた滞在であってみれば、もとより旅の空にはちがいない。しかし、私に与えられた二年間という期間は、定着するには十分な期間で、現にそのために、暮らしに必要なもろもろのモノを、厖大なパッケージで送り込む日本人もいる。私は第一に、土地と家にしばられる生活をしたくなかったし、第二に、モノにしばられたくなかったのである。

 私は自分のためには、ティーカップひとつも、所有したくなかった。アメリカにいるある日本人は、それを聞いて、ほう、日本の消費社会もそこまで来ましたか、と的はずれのコメントをした。

 もちろん、このモノバナレの衝動は、私自身が日本で、モノでかためた生活をしていたことの反動だという要素がある。趣味のいいインテリア、凝った食器、選び抜いたベットリネン・・・・・私はブランド亡者ではまったくなかったが、テイストというものが、アイデンティティやリアリティを作るという、近代の個性神話にコミットしていたとは、言えるだろう。

 サブレットの住居には、くらしに必要なものが何から何までそろっている。ただしそれは、他人の趣味というもので染めあげられている。イヤね、このカーペットの色、なんて言い出したとたん、サブレットなんかで暮らせやしない。私は、ストレンジャーでありつづけるために、他人の暮らしの流儀に、自分のほうを合わせ続けようと決意した。それが異文化体験の一つのやり方だろうからである。

 そして私は、日本の“趣味のいい”友人たちの住居を思い出す。新婚の夫婦でさえ、みごとにコーディネートされたトータルインテリアの中に、“個性的に”、暮らしている。「アンアン」や「ノンノ」や「ブルータス」といった雑誌のカタログ文化が、“モノにこだわる”生活を加速する。

 モノにこだわることは、必ずしもモノのコレクターであることだけを意味しない。気に入らないモノは、灰皿一つだって自分の部屋に置きたくない、という排除の美学だって、モノへのこだわりの裏返しのあらわれである。シンプルライフというのは、そういう排除のイデオロギーだろう。私は、モノにこだわるイデオロギーのポジからもネガからも自由でいたかった。現に私はいま、サンフランシスコ土産に友人にもらった、名所旧跡図入りの子どもだましみたいな灰皿を使っているが、べつだんだからどうってことはない。

 アメリカは、同時にチョイスの国でもある。日本と同じように、あるいは日本以上に、くらしのテイストに選択の幅がある。ハンバーガーひとつ食べるのにも、ソースの選択にあれかこれかを迫られるので、おしきせメニューになれた日本人は、面食らうほどである。トイレットペーパーを買いに行けば、品質だけではなくて、色彩や模様がよりどりみどりで、金持ちは金持ちなりに、貧乏人は貧乏人なりに、チョイスを楽しむことができる。私は、くらしを始めるのに最低必要なモノを買いに行って、そのチョイスの幅の中から少しでも自分のテイストにあったものを、いつのまにか気難しい顔で探し出そうとしている自分に気がついて、うんざりした。サブレットで暮らしながら、トイレットペーパーだけは自分の趣味に合ったものを、なんていうのは、何てささやかでワイセツな「自己実現」だろう。

 考えてみれば、ささやかなインテリア小物を、ブラウスやワンピース一枚の値段で手に入れる女性たちは、そうやってモノでかためた生活の中に、自己実現を見出していることだろう。ティーカップ一つ選ぶのから始まって、日本家屋にまるでそぐわないアンティークのサイドテーブルを一つだけ手に入れるアンバランスや、果ては、バスルームまでモノトーンで統一されたハイテックな邸宅に至るまで、程度は違っても、住居という自分のナワバリを自分のカラーで染めあげる「自己実現」の追及は、どれにも共通しているようである。

 住居は文字どおり自分のインテリア=内部だから、それを他人に見せることはドレスアップした自分のエクステリア=外部を見せることより、むずかしいし恥ずかしい。プライヴァシーの城のように言われるアメリカ人の住居も、他人を招けば、むしろ日本の住居以上に、内臓のすみずみまで他人の眼にさらけ出されることになる。そういうアメリカ人の私生活空間に一貫した趣味と管理のよさは、よく賞賛の的になる。受託管理術をくらべると、日本人の主婦は、まるで無能か怠惰だと、そしられてもしかたがないほどである。

 しかし、“モノでかためた生活”は、なんと“ウソでかためた”生活に似ていることだろう。皮膚の表面から始まって、自分のナワバリをひとつひとつ他人と違う「個性的な」モノでかためて、拡張していく。モノはその時、たんなるモノではなくなって、自己表現の手段、自分を表す記号となっている。そうやって「私らしさ」の擬似環境をでっち上げていく以外に、私たちは自分であることを確かめるよりどころがなくなっているようだ。それが作りものの自己イメージにすぎないというのは、個性的というものさえ、おしきせメニューの中からの、せいぜいチョイスの自由にすぎなくなっているからだ。私は「商品-差別化の悪夢」の中で、「他人とちがう」商品の示差性が果てしなくつづく泥沼の中で、消費者がかえって自分自身を見失っていく悲劇を書いた。その話をアメリカ人にすると、あるアメリカ人は、論旨が理解できないと言う。つまり彼にとっては、消費社会の中でチョイスの幅が拡がることは、「自由」の拡大ではないか、と言うのだ。個性の神話が管理社会の中で“実現”されるメカニズムについて、彼はまったくナイーヴに見えた。

 私はときどき、自分のくらしの中から、何が「なしですむ」か、引き算を始めてみることがある。コーヒーはやっぱり○○でなくちゃ、クロワッサンはどこそこの××に限るという、モノにこだわるフェティシズムをひとつひとつ除去していくと、生活の中から、かなりのものが姿を消していく。ウソでかためた生活を、“なみ”の日本人に劣らず私自身もしていながら、それがときどきウソだと言うことに気がついてみるのは、精神衛生にいいように思われる。

 しかし私は、モノバナレを唱えることで、エコロジー主義や省資源運動に加担する気はもうとうない。生活に必要な物質的な便益は、ないよりある方がいいに決まっている。モノを所有せずに、渡り鳥みたいにサブレットの住居をつないで暮らしていても、そこにはフリーザーつきの大型冷蔵庫がほしいし、全自動洗濯機や乾燥機がなくちゃ困る。アメリカで、モノバナレイデオロギーにコミットした結果、1940年代の生活を続けているご夫婦がいる。彼女は自分のイデオロギーに殉じながら、「でも、きついわよ」と荒れた手をながめる。彼女はモノに支配されることを拒否するのに成功した代わりに、モノを支配することも拒否して、いわば「たらいの水ごと赤ン坊を流し」たのだ。

 日本人は飢餓感から、所有の異常な熱意を、この30年間ばかり示してきた。フローが一応満たされたあとには、今度はストックを、と人々は求め始めた。銀行と住宅産業は、それで大いにうるおった。ストックを所有するということがどういうことか、よくわからないままに、人々は一生を抵当に狭い空間を手に入れ、そこにおびただしいモノを貯めこみはじめた。その時代には、モノの所有が、自己のよりしろだったと言える。生活の基本的なストックがそろった上で、それを“使用”できれば、“所有”なんかしなくったってかまわないのである。ストックに個人の刻印を捺す代わりに、ストックを匿名化してその中をユーザーとして泳ぎわたっていくことができれば、モノを所有するという私たちの強迫観念は、なくなるはずである。そして今は、モノのオーナーよりも、モノのユーザーの方が、ほんとうはもっと豊かな時代なのだ。


(上野千鶴子の文章による)

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