支店まわって現場知る
商標問題で休暇先からとんぼ返り、使用を頼み込む
伊藤忠商事の岡藤正広 社長(61)は1980年。
「イブ・サンローラン」ブランドの服地ビジネスを立ち上げたが、さっそく壁にぶち当たる。
最初ものすごい注文が来て、意気揚々とフランスに行きました。ところが、です。「オーダー用服地は無地では駄目。こんな趣味の悪いものはサンローランの名前で出せない」。400ぐらいの候補で選ばれたのは30色だけ。困りました。
パリのホテルで一週間考えた結論は「売れ筋はやっぱり無地やないか」。そこでパートナーで輸入服地卸の三喜商事に提案しました。「おたくのいろんな無地のブランド生地をサンローランに一本化しましょう。品質で差異化すれば絶対いけまっせ」。
サンローランの了解を何とか取って展示会を開いたら、女性に大受けです。うれしかったな。
新たな商材発掘も徒手空拳だった。
82年に「プレイボーイ」の名前で紳士服のパターンオーダーを始めようと考えて、服地商社の石田英に飛び込み営業に行きました。すぐに話がまとまって仕立て器具を大量注文しましたが、そこで問題が起きた。プレイボーイの商標使用権をある繊維メーカーが持っていたんです。
商標を使えないから、石田英さんも契約を取れない。僕は夏休み中。不慣れな車で河口湖の宿にやっとたどり着くと、会社から「えらいこっちや、今すぐ行ってくれ」です。女房残して、とんぼ返りですわ。繊維メーカーに頼み込んで何とか商標を使えるようにしてもらい、やっとスタートできました。
徹底した現場主義。商売のタネを見つけたら。とにかく足を運んだ。
ブランド生地は売れ残ってもバーゲンできない。そこで伊藤忠の国内支店の活用を思いつきます。各支店がその生地で取引先などと商売したら、売り上げの2割を渡す。そうやって協力を要請しました。
釧路から鹿児島まで、日本中の支店を回りました。在庫生地はうまく売れましたが、別の収穫もあった。支店の苦労を自分の目で見られたことです。例えば、釧路は所長と若手の2人だけ。
お客さんは地元の漁業会社で、船に一緒に乗り込んで仕事を手伝うんですな。苦労してお金をもらって、会社の利益にしていたんです。
「本社の入らとえらい違いや。何とかしたいな」。支店の人と酒を酌み交わし、心からそう思いました。社長になった今も、アフリカなど環境の厳しい場所で働いている社員やその家族を精いっぱい大事にするよう心がけています。
課長就任は40代。遅咲きだがすぐ頭角を現す。
課長になって手がけたのがブランドを雑貨や装飾品にまで総合展開する事業でした。伊藤忠がまとめ役となってマスターライセンスを取り、各アパレルの広告宣伝から販売促進まで全部代行する。これが大きなビジネスになりました。きっかけが「トラサルディ」。忘れられない、いろんな勉強をさせてもらいました。
商標問題で休暇先からとんぼ返り、使用を頼み込む
伊藤忠商事の岡藤正広 社長(61)は1980年。
「イブ・サンローラン」ブランドの服地ビジネスを立ち上げたが、さっそく壁にぶち当たる。
最初ものすごい注文が来て、意気揚々とフランスに行きました。ところが、です。「オーダー用服地は無地では駄目。こんな趣味の悪いものはサンローランの名前で出せない」。400ぐらいの候補で選ばれたのは30色だけ。困りました。
パリのホテルで一週間考えた結論は「売れ筋はやっぱり無地やないか」。そこでパートナーで輸入服地卸の三喜商事に提案しました。「おたくのいろんな無地のブランド生地をサンローランに一本化しましょう。品質で差異化すれば絶対いけまっせ」。
サンローランの了解を何とか取って展示会を開いたら、女性に大受けです。うれしかったな。
新たな商材発掘も徒手空拳だった。
82年に「プレイボーイ」の名前で紳士服のパターンオーダーを始めようと考えて、服地商社の石田英に飛び込み営業に行きました。すぐに話がまとまって仕立て器具を大量注文しましたが、そこで問題が起きた。プレイボーイの商標使用権をある繊維メーカーが持っていたんです。
商標を使えないから、石田英さんも契約を取れない。僕は夏休み中。不慣れな車で河口湖の宿にやっとたどり着くと、会社から「えらいこっちや、今すぐ行ってくれ」です。女房残して、とんぼ返りですわ。繊維メーカーに頼み込んで何とか商標を使えるようにしてもらい、やっとスタートできました。
徹底した現場主義。商売のタネを見つけたら。とにかく足を運んだ。
ブランド生地は売れ残ってもバーゲンできない。そこで伊藤忠の国内支店の活用を思いつきます。各支店がその生地で取引先などと商売したら、売り上げの2割を渡す。そうやって協力を要請しました。
釧路から鹿児島まで、日本中の支店を回りました。在庫生地はうまく売れましたが、別の収穫もあった。支店の苦労を自分の目で見られたことです。例えば、釧路は所長と若手の2人だけ。
お客さんは地元の漁業会社で、船に一緒に乗り込んで仕事を手伝うんですな。苦労してお金をもらって、会社の利益にしていたんです。
「本社の入らとえらい違いや。何とかしたいな」。支店の人と酒を酌み交わし、心からそう思いました。社長になった今も、アフリカなど環境の厳しい場所で働いている社員やその家族を精いっぱい大事にするよう心がけています。
課長就任は40代。遅咲きだがすぐ頭角を現す。
課長になって手がけたのがブランドを雑貨や装飾品にまで総合展開する事業でした。伊藤忠がまとめ役となってマスターライセンスを取り、各アパレルの広告宣伝から販売促進まで全部代行する。これが大きなビジネスになりました。きっかけが「トラサルディ」。忘れられない、いろんな勉強をさせてもらいました。