運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

憎しみが終わるとき

2007年02月18日 14時43分22秒 | Weblog
『どろろ』を観た。観るつもりはまるでなかったのだが、ちょうどよい時間帯にやっていたのだ。もちろん作り物ではあったが、意外な収穫感があった。柴崎コウの、似合わない俄か口調には終始抵抗は否めなかったけれど。

魔物に天下統一の夢と引き換えにわが子の身体を差し出した父親。
その結果、育ての親に作ってもらったつぎはぎの偽もののの身体をホンモノに戻すために、魔物たちからひとつずつ奪い返して旅をしていかなくてはならない運命を背負った青年百鬼丸。
彼は、その運命の理由を作ったのが父親だったとは知らず、内心は生みの親との再会に希望をつないでいた。
そして、旅の途中で彼と友情を深めながら連れとなった”どろろ”。
どろろもまた、過酷な過去があり、父母のあだ討ちを生きがいに旅をしていた。
 だが、思いがけないことに、どろろの狙う仇こそは、今ではひそかに心の中で愛するようになっていた百鬼丸の実の父だった。
そのことを知って苦しんだ末、いったんは別々の道を行き始めた二人だったが、戦いに疲れ、身体をとりかえしてまで生きる望みを失った百鬼丸の前に再びどろろが姿を現す。
『おいらも仇討ちをあきらめるんだから、お前もちゃんと生きやがれ!』と。

そして、またしても今度は己自らの身体を魔物に明け渡すことを交換条件にしてまで一族の繁栄に執着する父との対決に追い込まれていく。
やらなければやられるというその時に、父親を組み伏せながらもとどめをささない百鬼丸。『なぜ、わしにとどめをささぬのか』と言う父親に答えて、殴られて地面に倒れているどろろを指差しながら百鬼丸は言ったのだ。
『あいつ(どろろ)も憎しみを捨てた、だから俺も憎しみは捨てる』 

そうなんだよね。
憎しみが終わるのはなにものかの愛に触れられたときだ。
愛は愛からしか生まれない。なかなか深いじゃないか、この娯楽映画!

ミスチルのエンディングの歌を聴きながら流れるテロップをみていて、やっと、そうだ原作は手塚治虫だったんだと思い出した。さすがはオサムシ。時がたとうと形が変わろうと、ちゃんとあなたのエッセンスは残っているのでした。

ちあきなおみとオスカー

2007年02月17日 15時08分46秒 | Weblog
 テレビをつけない私に、パートナーが注進してくれた。『今夜のたけしの誰でもピカソ』はちあきなおみだよ。』
10時過ぎて、我が家のリモコンすら壊れたままのテレビのスイッチをつけ、手動で本体についているチャンネルスイッチを切り替えながら、えーと、何チャンネルだっけ?とカチャカチャやっていたら、なにやらパーティー会場が映った。もしや!と思うと、やはり日本アカデミー賞授賞式、今日だったのか!!
 さて、困った。私のちあきなおみへの思い入れは深く長い。
小学生の頃『夜のヒットスタジオ』という番組で、きれいではないのかもしれないけれど不思議な感じのするおねえさんが『朝がくるまえに』という曲を唄いだしたとき、『なあんだ、これも大人の唄か。早く終わって』と思って聴いていたのに「いーまぁのぉーわたしにやぁー、ひろーすぎーるー部屋ぁよオー』という部分で
なぜかゾクゾクっとなって以来なのだ。喉の震え方、声から伝わるあの何か。
伝説の名舞台となった、ビリーホリデイを演じた『LADY DAY』を生で観なかったことがいまも悔やまれている。
いまこそ、彼女が『千の風にのって』などを歌いながら、アノ不思議な微笑みを悲しみを越えた笑顔に変えて現れてはくれまいか、人々を力づけてはくれまいか・・あの『おねえさん』の声にはそういう使命が神様から与えられている、そうひとりきめつけ、切に願っているのだ。
運命と出逢うどころか、最初から共にいたような稀有な才能の持ち主の、後半の人生とはどんなものなのだろうか。彼女が唄を絶ってしまって、残念なのは私たちだけなのだろうか。本人はいかばかりなのだろうかと思うのだ

 ・・・しかし、日本アカデミー賞だ。
今年は『フラ・ガール』もある。『明日の記憶』もある。うーーーーーん。
で、結局、この究極の選択(あほらしい)は、CMのたびにカチャ化チャと指で変換スイッチをもどかしく4チャンから12チャンへ、そしてまた12チャンから4chaんへと、何度も押しながら両方を垣間見るということに相成ったのだ。
そのたびに『ああ、リモコン直しておくんだった』と、怠惰な我が家の体質を嘆きながら・・・・。

* ところで今日の写真は、日本アカデミー賞の最優秀ブロンズ像が並んだもの。  このブログのテンプレート写真のモアイ像にそっくり!?



ハウルの動く城 めざめのプロセス

2007年02月10日 14時23分10秒 | Weblog
どうやら少し風邪っぽい。おとなしくしていようと、家にあった『ハウルの動く城』のDVDをあらためて観ていた。劇場でも観たから二回目だが、やはり素晴らしい。主人公のソフィー(知恵の意味があるからなのかな)が、そこいらの女の子の興じることには心が満たされずに、でも自分が何を求めているかがわからずないまま、分を尽くして日々を生きている・・そこへ、ハウルという形をとって現れた運命と共に、一瞬だが空を歩くという想像だにしなかった体験をする。たぶん、彼女の中に眠っていた本来の希求心がここでスイッチ・オンして、求めていたものとめぐり会ったことがわかる。その後、一夜にして老婆になったり、寒い山上に独り旅をしたり、荒地の魔女の呪いのおかげで、新しい環境でとにかく生きていくために知恵を駆使して順応していかねばならなくなる。その過程で、ソフィーは気づかないうちに、自分のキャパをどんどん増やして、他者をあたため、力づけられる存在になっていく。旅の途中、見たこともなかった美しい自然や崇高な景色に涙し、そこで得たエネルギーは、かけられた呪いがうすらぐほどの生命力となる。すべて、ソフィーの素直さ、ひたむきさ、誠実さとの相乗効果だ。だが、そんなソフィーでさえ、人生と、そこで学ぶ愛との本当の意味に気がつくまでは大変な労力と回り道とが必要だ、他者を傷つけることも巻き込むこともある。だが、強くならなくてはならない。愛する存在たちだって自分同様、欠点も弱さもあるのだということも受け入れていかなくてはならない。
『ごめんね、私、愚図だから』すべてあやまりながら、進むしかないのだ。
そして、すべては己が引き受ける覚悟で、愛というものを自らの力で選び取ったとき、決して終わることのないように定められているはずのこの世の戦いにも停戦がくだされるのだ。
世界が変わるのは、外ではなく、一人一人の内なる魂の本当の目覚めと完成にかかっている。
世界を統べる魔女、サリバン女史は、私たちのこともいつも見ているのだ。

ドラムリンとエリー

2007年02月02日 16時05分58秒 | Weblog
とても好きな映画の一つに『コンタクト』がある。
カール・セーガン原作で、ジョディ・フォスターが、地球外生命体との交信を試みてついに返答を得る物語だ。
 先日、『不都合な真実』を観ながら何かに似ていると思い、そのままずっと胸にシュクシュクしていたが、今朝わかった。
そうだ、ドラムリンだ!!

『コンタクト』では、地球外生命体からの返答、(これは明らかにジョディ・フォスターが演じる主人公エリーの努力への返答だった)、そのメッセージが宇宙船の設計図であることもエリーが判読して、いよいよその宇宙船が完成されて宇宙に向けて飛び立つための乗組員を選ぶ段になって、いや、宇宙からの返答があった時点で急に、あたかも自分の研究成果のように振舞いだしていた、エリーの上司でもあるドラムリン教授が、アメリカ人の心理をついて巧みに選出される。心中の思いをふっきって最後には彼に『成功を』と、握手するエリー。あのときのドラムリンとエリーのことを、誰より妨害してきたくせに、選挙ではCO2削減を自分の政策に挙げて当選を果たしたブッシュと、敗れたゴアとの関係に触発されて思い出したのだ。

『コンタクト』を観た人ならしかし、うまいことやったはずのドラムリンがどうなったかを知っている。
彼はテストに紛れ込んだテロリストの自爆と共に砕け散る・・。
そうしてエリーは、その後思いがけない招聘で密かに作られていた予備の宇宙船に乗って、『真の招待者』として宇宙に向かう。..その後になお残されている大きな課題がこの映画の本題なのではあるが。

・・・正直者が馬鹿をみたのは昔の話。
これからはもう、正直者だけが残っていく時代に突入していくと聞いている。
ブッシュがドラムリンのようになるかどうかは知らないが、大いなる意志はすべてをきっと見ている、報復や裁きは人間がすることでなく、原因がまわりまわって結果へとつながっていく。
わたしたちは、自分のやることを、誠心誠意やっていくだけなのだと思う。