運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

ガイア大使ゴア

2007年01月27日 19時59分39秒 | Weblog
一頃、新聞もテレビも見ないで暮らしていた。いらない情報と紙の洪水に辟易したからだ。自分に必要な情報は何に頼らなくても、必要なときにちゃんとやってくる、そう信じてもいた。実際、結構そういうこともあって、それなりに何とかなっていた。・・・と思っていたが、自ら必要としない分のことは何も知らないでやはり通り過ぎてしまっていたのだ。アメリカの大統領選の時も、ブッシュの顔をみただけで胸元がシュクシュクといやな感じになるので関連ニュースも避けていて、たたただ、ブッシュにならないようにと祈るだけで、対立候補のこともなんにもわかっていなかった。ゴア、という名前はマグマ大使に出てくる悪役が『ゴア』だったからというわけでもないだろうが、アメリカにも期待していなかったので、どうせ、ブッシュと大差ないんだろうと勝手に思ってしまっていたフシがある。(ああ、自らの無知を恥じる)

『不都合な真実』を観てのけぞった。
この、どうかすると、孤独に神々しいほどの表情をみせるゴア役は、役者ではなくてあのときのゴア氏本人ではないか。
そして、彼がコツコツ開き続けてきた地球温暖化防止対策のためのスライドショーの、なんと明快で説得力のあることか。
 この十数年、理科系に弱いこともあるのと表現力と説明力がないせいで、ちゃんとうけとめてもらえず、歯がゆくもどかしい思いをすることが多かったが、これを覚えておけば人にも説明ができる、これを見せれば、なぜ、どうでもよさそうなゴミの分別にこだわるのか、なぜ、ティッシュを使えば便利なのに、使おうとするといちいち目くじらたてるのか、なぜトイレの電気を消していなかったくらいでうるさいのかと、我が家の家族たちも、この母さんの理由がわかってくれるのではないか。。あ、いや、ことは、そんな瑣末なことだけではないのだが、とにかく、ありがとう!!!ゴア。
彼自身はそして、学生時代に授業で見せられた地球環境の現状のデータのスライドで、やがて、自らが世界各地で地球の現状と温暖化防止を訴え続けていく役割という彼の運命と出合ったのだ。
一時は、政治家として没頭しそうになったとき、わが身よりも大事な息子の目の前の交通事故と、その後の命を見守る時間の中で、また使命にひきもどされて。
私が英語さえできたなら、あなたのスライドショー上映のためのボランティアに、いや側近にさえなりましょうぞ。まじめにこの映画を自主上映してまわれないかとも考えたりして、帰宅してからも、この映画を観るべきだと触れ回った。が、幸い、私が知らなかっただけて、実はこの映画、アメリカでも大反響で、ファッション誌の『マリ・クレール』なんかでまで特集していたり、いまや実践のムーブメントが広がってきている。そう、そういう風に、ポピュラーになること、老いにも若きにも形なんてどうでもいいから自らの暮らし方が招いてきているこの地球の危機を回避するための毎日の実践と選択が浸透することが大事なんだ。
『エコ好き』、なんて呼称が生まれたように『そういうことに関心がある人はそういうのが好きな人たち』、みたいにくくられたりしていた時代から、一歩確実に踏み出したのだ・・というか、そんなことで喜んでいられないほど事態は緊迫しているし、それでももうまにあわないくらいなのだ。
 でも、続けてきたゴアはやっぱり、われらのマグマ大使ならぬガイア大使だ。

『ダーヴィンの悪夢』と白スズキ

2007年01月12日 00時01分28秒 | Weblog
 まだ中学生だったときの話だ。知人の『お兄さん』が、青年海外協力隊でタンザニアでのボランティアを終えて帰ってきた。向こうの珍しい切手のお土産とともに、ワニに食べられていく同僚を撮影した話(ほんとうだったのだろうか?)や、ビクトリア湖に釣り糸を垂れて、一匹魚が捕れたら、もうその日の暮らしはOK、あとは寝て暮らす地元の人々、何でも『ジャンボ!』で済んでしまうのどかさの話をきいた。当時、私の中でのタンザニアは、日本とは違う時間が流れる明るい場所だった。
アフリカは刻々変わっている。そのままのわけがない。内戦、反乱、飢饉・・つい、このあいだもルワンダのツチ族の生き残りの女性の体験のすさまじさを突きつけられたばかりだ。(参照:イマキュレー・イリバギザ著 堤江実訳『生かされて』PHP出版)

だけど、ナイル・バーチのことは知らなかった。白スズキ、とよばれて一時は切り身になって売られていたし、その写真を見れば、きっとあなたも見覚えがあるはず。ビクトリア湖で放たれたその養殖魚は、ダーウィンの実験場、箱庭、とまで言われたほど多種多様の、元からいた魚たちすべてを食いつくしながら、大きいものは2mにもなって、マグロのように水揚げされ、ヨーロッパや日本に送られている。行きに地雷や兵器を運んできた飛行機のおなかに、いっぱい詰め込まれて。
そして、今度はわたしたちのおなかに白身魚のフライやステーキになって詰め込まれているのだ。かつて、釣り糸を垂れて日々の糧を得ていたタンザニアの国の人々には手の届かない商品となって。
タンザニアの町では、貧しさやエイズで親を失ったこどもたちが空腹で眠れない夜を、魚の入っていた発泡スチロール箱を燃やして溶かし、シンナーのような気体を吸って紛らしながら明かす。

『ダーウィンの悪夢』というドキュメンタリー映画はその状況を克明に撮って私たちに見せ付ける。そのショッキングな現実にフランスではナイル・バーチのボイコットが起こり、それに対して短絡的だとの批判もされている。
それはそうだ。問題は、単にそういうことではないのだ。
が、飽食の町、東京の渋谷でこの映画に行列ができているいま、ナイル・バーチのボイコットの声は聞かれないが、かといってデパ地下も変わらないし、武器を輸出している会社への糾弾もないし、その会社の株価は順調に高値だったりしているのだ。

 タンザニアの切手をお土産にもらったあの頃、サンタナの『哀愁のヨーロッパ』という陰影のある曲が流行った。後に、原題が『Europe,Earth`s Joy,Heaven`s Cry』であることを知り、なんというタイトルだと恐れ入ったが、いまや、私たち人間そのものがHeavn`s Cry にならんとしているのだね。もちろん、私も然り・・誰に詫びたらいいのか、どうしていけばいいのかね・・。



『星のような物語』を

2007年01月05日 14時32分56秒 | Weblog
新年早々、michioに会えるなんて。・・・NHKで 『アラスカ・星のような物語』を観た。またまたやられてしまった。もう幾度、彼のメッセージを受けて放心しただろうか。
『自然には二種類の自然がある。一つは、身の回りにあって日常を共にしたり,彩を添えてくれる自然。もうひとつは、今はもうなくなってしまった太古の世界を垣間見せてくれる自然、そこにあると思うだけで生きていく力をくれる種類の自然だ』・・どうして、こんなに的確に表現してくれるのだろう。
そして、そこにあると思うだけで力をくれる自然の一部に、あなたの作品と、あなた自身がなって、わたしたちに力をくれていることの凄さに、私は毎回打ちのめされる。
『願い続けた夢が叶う日の朝がこんなにも静かなのはなぜなのだろうか』
彼はカリブーの大群とめぐり合った。

そんな静かな朝のあと、もし、私なら、現れて欲しいと願い続けている、待ち続けている光景はなんだろう。
そう思うと、それは、あの懐かしい大地、が再び出現する瞬間。
そう、まるでザトウクジラのように・・。
そしてその日は遠くない気が、している。

新年、あけましておめでとう☆