「誰でもよかった」という言明は間違ってはいない一方、しばしばミスリーディングでもあるように思える。もしその動機付けを正しく表現するならば、「特定の誰かではならなかった」となるケースが多いのではないか。
というのは、巨大なるもの、あるいはその大きささえ見通しがたい何者かに対する怒りに突き動かされての行為であるならば、特定の対象を定めることはむしろ正確さを欠いているからである(その意味で、傑作「太陽を盗んだ男」は予言的な作品とすら言える)。
無論、そのような無軌道な怒り・害意の被害者とならねばならぬ義務など何人たりとも持ち合わせていないのであって、今ここで述べたことは行為の正当性とは全く無関係ではあるし、かつそのような動機付けに基づいた行動は結局のところ行為者についても身の破滅しか約束しえないのであるが(映画「接吻」も参照)。
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