俺は時たま蒙古タンメンの「中本」に行くのだが、5辛(=普通の蒙古タンメン)程度でヒーヒー言いながら食べている。だから5辛以上って辛すぎて同じじゃないの?などと考えてしまう。一方、職場には「10辛の北極でも余裕ですよ」だとか、「しっかり煮込んでいて味わい深いのが良い。単に辛いのとは違う」と言う人間もいる。そういった発言は、職場では「味覚が壊れてるんじゃないのw」とネタにされたりするわけだが、ふと考えてみると、これは「ノーマル」と「アブノーマル」の関係性、あるいは自分をノーマルと認識している人間にとっての「アブノーマル」の見え方と同じではないか?つまり、内実をきちんと見ている(見抜ける)人にとって、アブノーマルの中にも多様性があるのは当たり前なのだが、自らをノーマルの側に(意識的であれ無意識であれ)置いている人間にとっては同じように見えてしまう、ということである。
・・・という話を2013年の記事で書こうと思ってそのままになっていたが、帰省中に買った少年アヤ『尼のような子』を読み進める中でこの序文が想起された。これまで私は、同性愛者がセクシャルマイノリティとしてハッテン場やゲイバーのような(同じような境遇の多い)場所に心の安寧や出会いを求めて集まるものだと思っていた。しかし、この本の作者は大要次のように言う。
新宿二丁目には近づきたくない。同族嫌悪もあるが、自分が(性的な対象として)査定されるのが苦痛だから。だから、最初から異性愛がノーマルとなっている都市の中に溶け込んで風景のようになることを望んだ。
と。ここでは、狭いコミュニティの中でさえも自分が拒絶される不安と恐怖が渦巻いている。狭い世界の中でも、いやそれだからこそ、差異や差別は強烈に存在する。よく考えてみれば当たり前のことだが、異性愛にだって様々な嗜好や価値感があるのだ。同性愛がそうでないと思うのは、マジョリティの側がマイノリティに対してレッテルを貼るからそう認識してしまうだけのことにすぎない。実際、自分が関係した人間の中にも女装しながらバイセクシャルの人間がいたし、あるいはトランスセクシャルで男から女になったからといって、そのことがすなわち性的対象=男であることを意味するとも限らない。また「ニューハーフは結局みな女性になりたいのだ」というのも乱暴なまとめ方である(身体は変わりたくても女性のコミュニティには居づらいと感じる人もいる)。実際は自己認識・承認・性的オリエンテーション・ジェンダー(≒社会的認知・役割)という様々な要素があるというのに、まとめて単純化してしまうのは、そこに「完成された男性・女性」の像がどうしようもなく貼り付いているからに他ならない・・・とそんなことを思った(これは露出狂に対する主人公の眼差しなどともからめて色々書きたいが、長文になりそうなので割愛する)。
逆に読んでもわからないと改めて感じる部分もあって、アイドルやグッズなどへの執着はその好例だ。これは、書き方が下手だとかそういうことでは全くないし、また(前述した居場所のなさも考え合わせると)代償行為といったことなども理解はできるのだが、端的に実感がわかないのだ(「傷だらけのidol」、「心の底からIしてる」などを参照。整形への嫌悪感も、神聖さの剥奪という意味で一部これと関わるかもしれない。まあもっとも、理解できないからこそ、その精神構造を解析することに強い興味がわくし、またそういう反応が薬物などによってトレース可能になったら[つまり不確実性・不可解さゆえの神秘・深淵なる印象がre-vealされたら]人はどのように自己・世界を見るようになるのか?ということにも興味が尽きないのであるが。ちなみにこれはSF的な妄想を開陳しているのではなく、韓国ではプチ整形が横行しているし、アメリカでは何かあれば薬物に頼るのが常態化している。つまり、「今そこにある危機」ならぬ「今そこにある現実」なのである)。ただ、自分もまた免疫のなさが原因で、ある日突然異常な執着に憑かれてそれしか見えなくなることがあるかもしれない、とも思う。まさに一寸先は病み・・・ってこれ全然他者のこと認めてねー言い方だなw
閑話休題。今述べたことだけならよくある熱心な「追っかけ」の話に聞こえるが、非常に興味深いのは、この点についても著者が自分を極めて突き放しながら書いていることだ。たとえば綾野剛に関する日記。著者は写真集発売記念の握手会で思いもよらず綾野にハグされたそうだが、その翌朝のツイッターでは「オカマのくせに調子に乗るな」「お前のせいで綾野が汚れた」「罪を償え」「今すぐ死ね」といった罵詈雑言が並んでいたそうだが、これに対する著者の言葉が奮っている。すなわち、
まるで、フランス革命を前にしたマリー・アントワネットの気分だった。次々と殺到する暴言には嫉妬が滲み、炎上すればするほど、オンリーワンの喜びが私を包む。
まあこれだけならわかる。人が激烈に反応すればするほどそれがますます自分の特殊性を際立たせ、よりいっそう悦に入るという精神構造だ(ちなみにこれがあるから宗教とかの信徒を説得して抜けさせるのは難しかったりする)。しかし、
わかってない、群衆はわかってない。剛にゃんが、なぜハグをしたか。私が不憫だったからだ。同情したからだ。ギョッとした剛にゃんの顔。それを打ち消そうとする笑顔。わかってない、群衆はなにもわかってない。
という文言を見て、ハッとさせられる。 言葉というものは、自己表現でもあると同時にしばしば自己を守るコーティングとなる。「自虐」はその最たるもので、あらかじめ自分を下げておくことで批判を緩和・回避するといういじましくも卑劣な手段となりうる。ただこの著者の場合、熱狂と同時に熱狂している自分をどこか突き放して表現する筆致、そして様々なところに浮き出る「居場所がない感」が、ここで書かれている内容を自虐による逃避と感じさせないように機能している。ただ、その認識は感心と同時に痛みを伴うものである。なぜなら、「自虐」をただの逃避として活用し、しかもそのことに気づかない曚昧な人間であれば、対象を変えながらのめり込み続けるだけで済むであろう。しかし(不遜な言い方を承知で言うなら)著者の「不幸」は、没入している自己やそれが周りにどう見えているかをするどく認識できるだけの聡明さもまた持ち合わせていることではないか。だから、没頭し切ることができない。「人畜」になりきることができない。しかしおそらく、この本の中で描かれているような行為を著者は容易にやめることもできないのではないか?なぜなら、そこには居場所のなさによる圧倒的な空虚さが関わっているのだから。そのように思うにつけ、先の引用した文は、刃のように読者を、そして何より著者を切りつけてくるものであるように感じられるのだ。
しかしこのような鋭さがあるからこそ、この『尼のような子』は、しばしば私には実感できない部分を含んでいるにもかかわらず、非常に印象深い本だと感じられるのである。
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