「中世の歴史史料と物語の作られ方」という内容の記事を準備していたが、「国語の勉強つまらない人に欠ける”古文の奥深さ” 解釈が色々あるからこそ、学んでいて面白い」という文章を読んで興味が湧いたので、そちらを先に取り上げたいと思う。
そこでは「春はあけぼの」の文章がどこに句読点を打つかで解釈が変わる(解釈の多様性)という話が書かれておりなかなかに興味深いのだが、それを興味深いと生徒に思わせる(学びの動機づけにする)には相当な話術が必要だろう。さらに言えば、生徒目線で考えたならば、「で、そうやって学んだ『解釈の多様な可能性』ってテストの時にどう点になるんですか?」と思う人間はかなりの数いるだろうから、その「多様性」とやらを活かすテスト作りがそもそもなされているのか、という点も気になった(出題例としては、それぞれの場合の意味合いの違いを問う、とかね)。
ちなみに『枕草子』を習うのは、ほぼ確実に古文学習が一気に難しくなる、言い換えれば覚えるべき文法事項が急速に増えるのは高校1年生である(中高一貫校はその限りではない)。ではその時の状況を考えてみると、まだ文理選択もされておらず、英数国理社はもちろん、理科や社会も必修があったり受験に使う科目が決まってなかったりで複数やるケースが多いし、そこに体育とかのサブ科目も加わるわけだから、1科目あたりに割けるリソースが高2や高3よりも少ない。つまり、本格的に古文を学び始めるタイミングであるにもかかわらず、投下できる時間は少ないのだ。結果として、生徒側は「どう効率よくテストで点を取るか」というマインドになりやすいし(何だったら「捨てる」)、実際のテスト自体も用言や助動詞の活用など単発的な知識確認系になりがちである。
で、本格的な古文学習の入口がこのようなものである生徒たちが「古文を学ぶ意味なんかねーわ」という認識を持ち、古文を忌避したり、あるいはただ効率よく暗記する方法を模索するのは、何ら驚くことではないように思える(例えば数学で言うと、単純な計算問題を別にすれば、様々なケースで別解が存在する訳だが、大抵の生徒は今習っている単元の公式をそのまま道具主義的に当てはめて解くだけで、わざわざ別の可能性で試行錯誤する割合は少ないだろう)。とするなら、多様な可能性を自ら積極的に考える生徒を育成するには、教授法だけでなく「出口」としてのテスト内容に相応の工夫が必要なのは言うまでもないだろう。
以上を踏まえると、生徒の置かれた状況を慮った場合、教師のスタンスとしては、「解釈の多様性とその豊かさ」がテストの点だけで測れない性質のものだと知りつつも、一方でそれを他者(生徒)に認識してもらうためには相当の工夫(仕掛け)をすることとなり、その一つが「そもそもテストにそういう性質の問題を盛り込んでしまう」という手法になるのではないか、ということだ(まあこのレベルのことを忙しい生身の人間が全国でそれなりに統一された品質で行うことは極めて困難であるため、かなりの程度を映像授業などにアウトソーシングした方がよいと私は思うが)。
・・・と以上のような話を読んで、突飛なことを書いているように思う人がいるかもしれないが、実はこういう「テスト形式を先に整えて学習内容を変化させていく」という手法は共通テストにおいてすでに実践されている。国語に関して言うなら、共通一次やセンター試験の頃は文章の内容に合う選択肢を選ぶ問題で構成されており、言ってしまえば解釈の多様性より「一つに絞る力」(最も蓋然性の高いものを見抜く力)が求められていたから、テストで点を取るための勉強をするという道具主義的思考・戦略的思考においては、「解釈の多様さ」などというものは言わばお遊戯、もう少しマイルドに表現すれば「趣味」的な領域になりがちだった。
しかし現在では、提示された文章に関する生徒同士のやり取りの中で解釈の様々な可能性が提示された上で、それを踏まえて言えること、つまり一種の「解釈・答えの相対性」のようなものが意識される構成になっている(まあ生徒同士のやり取りで答えを導き出す、という流行りのアクティブラーニング的要素でもあるわけだが)。
その他にも、生物の問題がセンターまでの用語暗記中心から共通テストでは実験考察中心に変化したこと、あるいは日本史では用語暗記や年代暗記が中心だったものが史資料の読み取り問題主体に変化したことを例として挙げられるが、いずれも高校で学んでほしいと考えている内容を踏まえた出口の変化とみなすことができる。
ちなみにテストという名の出口を先に設定することで、途中経過=高校での教授法や生徒の意識を変えさせる、という記述に違和感を覚える方がいるかもしれないが、「情報」という科目の導入も含めて、先にルートを作ってしまい、現場はそこに適合するため右往左往する、というのが近年継続的に見られる現象となっている(この表現からもわかる通り、そのような施策を必ずしも全肯定しているわけではない)。それを踏まえて、「高校での教育内容の変化→テストの変化」という「ボトムアップ型」ではなく、「テストの変化→教育内容の変化」という「トップダウン型」のモデルで説明しているのである。
ことほどさように、「テストで点を取るための勉強」という行動原理からの脱却は極めて難しいため(なぜならそれが生徒・保護者から見たキャリア形成という視点では合理的だから)、教授法の変更などという迂遠なやり方ではなく、そもそもテスト自体の内容・方向性をいじってしまう手法が有効だと思われる(まあ現場にとっては疲弊・弊害も大きいと思われるが)。
というわけで、「古文に興味を持ってもらうために、文章の解釈の多様性を提示する」という冒頭記事とは真っ向から対立するような内容になったが、要するに重要な事は、「こうやったら面白く教えられる・感じてもらえる」という特殊具体的な話を延々としていても全体への影響は微々たるもので、仕組みの変化とそれによる教師や生徒のマインドセットの変化について論じないと効果は薄い、という話である。
私は古典教育肯定派でも否定派でもなく、ある種の「懐疑派」として何度か記事を書いてきたが、そこで常に思っていたのは、生徒目線に立った上で現実的な意識変化の手法を考えている人がいないこと、あるいはそもそも仕組みの問題点や変更のあり方について論じる人はほとんど皆無だということだ(一応言っておくと、「古典を必修ではなく選択科目化し、大学入試では課さないことにより道具主義的な学びから解放する」というコメントは見たことがある)。
なるほど大学であれば、古文が好きだったり必要だったりする人だけが集まっているゼミもあるわけだし、一般教養で興味がないなら切ればいいだけだから、ということで話は終わりだろう。しかし、高校教育で必修化するということは理系の人間含めた幅広い層が対象となるわけで、大学とは全く状況が異なる。この点の無理解があまりに強すぎるように思えるのだ。
先に述べたような古文を本格的に学習するタイミングにおいて生徒がどのような状況に置かれているのかなんて誰も書いてないし、なぜそこで道具主義的な発想になるのかなど全く考えようともしていないのである(その意味で、『算数文章題が解けない子どもたち』のような調査やその内容共有が不可欠なのでは?)。私が古典教育肯定派の意見を冷笑的に見ているのはこれが理由で、いかにもお役人や知識人が実態を考えずに述べた上滑りの意見だなあとしか感じられない。
そこでは、例えば次のようなことは考えられない。すなわち、
「古文をおもしろく教える能力が高い人」を求めても特殊具体的な効果しかなく、公教育として幅広くベクトルを共有するためには相当の仕組み作りが必要である。というか、全国津々浦々でそのような質の共有・質の担保をするのは極めて困難だから、授業の全て、もしくはかなりの程度を映像授業に変更すべきである。そうすれば、現在教壇で教えている教師はチューター的な役割をすることになり、教師の業務量も減らせるため、労働環境の改善もできて一石二鳥となるだろう。
と。
このような意見は非常に極端でドラスティックに思われるかもしれないが、本気で古典教育の質の担保を最優先に考えるなら、これぐらいの変更は当然の可能性の一つである。逆に言えば、今ある仕組みの中でマイナーチェンジをしているうちは結局一部の優れた教師や生徒に期待する=マンパワー頼りの状況は変わらず、学ぶべきことが日々増えていく現代において、古典教育の立場が日々危うくなっていくのは不可避のことと言えるだろう(そこまで極端な変更でなくとも、例えば前にも書いたように、そもそも古文という授業を別立てしていきなり平安時代の文章を読ませるという意味不明な状況をやめて、現代文→近代文語文→古文・漢文という遡行をすることで、現在をより深く理解するために古典教育があることを不断に意識させるカリキュラムにすることなどは可能なはずだ。これはひとり国語だけの話ではなく、共通テスト数学や現行の高等数学のカリキュラムが、「日常と数学の結びつき」を意識させるようなものにしようとしていることとも類似する)。
古典教育肯定派の意見を見ていても、結局そこまで徹底的にその効果を最大化するための仕組み作りについて無頓着であり、私がお花畑の思考だなあと生暖かい目でその言説を眺めている理由である。
ともあれ、古典教育肯定派の意見のどこに大きな問題があるかという一端を示すことができたので、今回はここで稿を終えることとしたい。
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