細川重男 『鎌倉幕府の滅亡』:その複雑な要因の探求から見えるもの

2020-09-27 12:52:23 | 本関係
個人的な感想からで恐縮だが、私は鎌倉幕府の滅亡について、ほとんど具体的なイメージを持てていなかった。それは明確な原因がよくわからないといったこともあるが、時代の変化をあまり感じられないといったことも大きな要素であるように思える。
 
 
具体的には、例えば平安時代→鎌倉時代なら貴族中心政治の終わり、室町時代戦国時代→江戸時代なら未曽有の分裂・抗争の時代の終焉、江戸時代→明治時代なら近代化・欧米化(ただし廃仏毀釈のように、復古的側面もある)といった具合に、ある程度何らかの画期という印象を持ちやすいが、鎌倉時代→室町時代の場合は政権の担い手は武士のままだし、システム的に類似のものも多いし、変化の要素を見いだしにくいのだ。
 
 
こういった事情もまた、鎌倉幕府の滅亡という出来事を理解しにくくしている要因かもしれない。そのような心持ちだったので、十年近く前の本ではあるが、『鎌倉幕府の滅亡』を読むことにした次第である。
 
 
鎌倉幕府の滅亡というのは、確かに1333年であることは確定しているし、後醍醐天皇や護良親王の蜂起、楠木正成、新田義貞の呼応といったふうに、一見すると滅亡の要因もまあわからなくはない。しかし、なぜ鎌倉幕府が滅亡するに至ったのか?と問えば、元寇以来の恩賞問題も、得宗専制システムにおいて貞時という暗君がその地位についてしまったことも、それで滅亡の要因とするには些末なものであるという。
 
 
なぜなら、前者はむしろ、事実上の「東国政権」でしかなかった鎌倉幕府が西国の武士を包摂せざるをえなかったことの方が重要であり(その結果として幕府が裁定すべき分量がキャパシティを超えた上、西国の武士と東国の武士の扱いに不平等が生じることにもなった)、後者については、得宗専制がその末期において得宗を傀儡とするようなシステムへと変容していた(評定衆や引付衆を独占する特権的支配層の専横。言い換えれば高度な官僚的システムの成立)ことを強調している。
 
 
このような前提の元に、ご恩と奉公という鎌倉幕府を支えてきたシステムの矛盾が徐々に広がっていた(言ってみれば、幾多の風雪=反乱に耐えた強固な柱に亀裂が入った)状態の中で、天皇・親王の蜂起が起こった際にゲリラ戦を強いられ上手く処理できなかったことにより持久戦の中で徐々に潮目が変わっていき、呼応者が出たりとドミノ倒しのように(鎌倉幕府視点では)状況が悪化していって、ついには滅亡に到ったと著者は説明している(その他、自らを害することになる悪党を保護した悪手、政府の管轄領域が広がってキャパシティを超えた状態になったにもかかわらず、中央集権と地方分権の矛盾した政策を実施していたことなども言及している)。
 
 
要するに、反幕府勢力との戦いに苦戦する中で、鎌倉幕府は状況の悪化とともに滅んでいったわけだが、その状況を悪化させた背景について詳しく分析している、と言えるだろう。
 
 
本書はそもそも短絡的・単線的な滅亡要因の説明に一石を投じるという性質で書かれているため、スッキリするような明解な答えがあるわけではない。しかし、このようにして複雑な背景を紐解いていく作業の積み重ねの中で、歴史事象というものはよりよく理解されていくのではないだろうかと思う(などと言いつつ、そうやって物事と向き合って理解していこうという「構え」を涵養することの方が実は先だったりするのだが)。
 
 
今回本書を紹介したのは、抽象的な領域で言えば、日本人の無宗教についての短絡的な分析に対する批判的視座「沖縄の背景」で述べた複雑な背景理解の必要性『世界の辺境とハードボイルド室町時代』で述べたコスモロジーの理解、あるいは『レズ風俗で働くわたしが、他人の人生に本気でぶつかってきた話』で書いた人間の複雑性とそれを大事にする構えなど、物事を深く考え理解する姿勢に繋がるものだと感じたからだ。
 
 
もっと具体的には、最初の武家政権として後のモデルとなった鎌倉幕府とはどのような政権だったのか、そしてそのどういう特性が継承されていき、どういう特性は捨て去られたのか、といったことを考える上で、鎌倉幕府の変容という問題は非常に示唆に富んでいると言えるのではないだろうか。
 
 
また本書において、鎌倉幕府の中央集権体制とそれへの固執(例えば六波羅探題や九州探題に属する者たちの人事権)が滅亡の一要因となったことを指摘しつつ、室町幕府ではそれが放棄されて地方分権化が進んでいったと記述されている。
 
 
これまで私は室町幕府の分権体制が観応の擾乱や南北朝動乱などによる混乱と守護大名制によるものと認識していたが、こういった鎌倉幕府との対比(あるいはそれを反面教師にした??)という観点でも室町幕府の支配体制を考えてみるとおもしろいと思った次第だ(そしてその室町幕府が、分権体制ゆえにしばしば政権が安定せず、応仁の乱はもちろん明応の政変や享徳の乱などによって独立傾向が進み、ついには戦国時代へと到ったことを思う時、鎌倉幕府が人事権を押さえていたのもこういう必要性もあったのだろうし、げにバランスというのは難しいものだと感慨にふけった次第である)。

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