残滓たちの戯れ6

2024-08-30 19:30:00 | フラグメント

<2008-12-28 01:19:48> 2008-12-28 01:19:48  
この現実が、そして人間がおもしろいと思えないなんて、それは大いなる不幸だ。


<なぜ整形が不快なのか?> 2009-01-13 23:46:54
化粧の話をした。「化粧はいつでも着脱可能なので、整形とは違う」という反論は出るかもしれない。しかし果たして、化粧をしている人を見ている時に「この人の素顔はどんなものか?」なんて考えたりするもんかね?まあせいぜい化粧濃い人を見てネタ的に考えるくらいで、逆に言えばそんな状態は普通じゃないでしょ。つまり、正当化のためのロジックにすぎない。


これらをもって「整形は抵抗なく受け入れるべきだ」と言いたいわけではない。というか化粧の話をしただけで変わるならむしろ話は簡単なのだ。何を言ったところでそれは受け入れられない、となった時に「それはなぜなのか?単なる嗜好の問題か?それとも他の要因があるのか?」という問いが立つのだ。そこから


<整形と妬み> 2009-01-15 12:11:10
かつて整形に


これらの記事は重要な概念が抜け落ちている。それが「妬みenvy」だ。
これは同性の場合によく起こると思われる。彼もしくは彼女は実は整形していたことがわかった時、幻滅する人と嘲笑する人が出てくることが予想される。前者は偶像の話でおおよそ説明できるが、後者はむしろ妬みで考えた方がわかりやすい。


喜んで引きずり下ろす。昔読んだ小林よしのりの差別の構造の話…成功している同僚が部落出身だと便所に落書きをする。


止めろとか押さえ込めとか言っているわけではない。あえて言うならそれをよくよく認識すべきだと言っている。そしたら、自分は「まとも」とか口が裂けても言えなくなるぜ。


<もやしもん~多様な楽しみ方~> 2009-03-07 01:15:17
もやしもん~ビールからエロスへ~」ではもやしもんにハマった経緯について書いたが、今回はより一般的な観点からその魅力を考えてみようと思う。


まあ大ざっぱに言うと、「色々な人が楽しめるように作りこまれている」というのが結論である。そんなの別に普通やんと思うかもしれないが、ニーズの多様化している現在それは非常に難しいことだし、また単に色々な要素をネタ的に詰め込むのではなく、人物配置などによる見せ方(例えば樹⇔及川・宏岡)が上手いという点は高く評価すべきではないか…とそういう点を根っこにして、具体的な話を展開していくことにしよう。


<人物造形>
もやしもんの特徴と言えば「菌が見える主人公」ということになるだろうが、それがなくても十分楽しめるほどに個性的なキャラが数多く登場し、またそれらを上手く絡ませている。そのためか、例えば秘密道具を軸に話が展開するドラえもんのような作品とは違って、 菌が見えることで一風変わった世界観に

もちろん、「菌が見える」という他の作品にはない特徴を重視する人もいるわけで、それに応えた結果が四巻の危機であり、能力を生かしたフランス編の展開だったと推測される

・長谷川の能力に対する拘り
今でこそ柔らかくなったが、長谷川はキツい人物として描かれてきた(単行本欄外の紹介でも「ドS」などと書かれている)。第二巻で主人公(沢木)が自分ではなく自分の能力が必要とされていることについて文句(?)を言っているのに対し、彼女は次のように応じている。

*****************************************************
あったり前でしょ!
人が人を評価すんのはその人の能力じゃん
だからみんな頑張ってるんじゃない
正直努力もしないでそんな力持ってるあんたが憎たらしいわよ
例えばあんたの血を飲めばその力がもらえるなら
あたしは躊躇なしに刺してるわ
*****************************************************

沢木に反論するにしても、最後の二行は明らかに余計であり(フランス編のロマネコンティの話とリンクか?)、これが長谷川の性格を印象付けていると言っていい。

これをもって「キャラが立っている」と評価したり、性格そのものや他の人物との絡みを楽しむこともできるが、その性格の拠って立つところを考えてみるのもおもしろい。「派閥などで色々決まる環境に反発した結果生まれた傾向」というのは深読みだとしても、彼女が大学に残る動機付けを考慮すれば能力にこだわるのは不思議なことではない。ある意味で彼女にとっての能力とは、自由を確保するための唯一の武器なのだから。


なお、主人公の能力が単に便利なものとして扱われていないことは以降のもやしもんの展開を考える上でも興味深い)。


<受容分析の欠落> 2009-03-08 00:22:40 
a 自己破壊衝動
b 真ー偽の二元論を超えて


戦闘力→崇編と罪悪感の記事は容易に批判できる。

その事を理解していたので、最初反論の記事があるのを見た時は面倒なことになったか?と思った。しかし圭一には罪悪感があるという描写の話だったので容易に批判できた(正確には根拠の有無を確認してからだが)。

しかし、視点をちょっと変えればいいだけだ。

批判は「プレイヤーに伝わりにくくなっている」ところにある。とするならば、実際に誤解を招く原因になっているのかをこそ調べる必要があるのだが、それにもかかわらず、論者は表現技法とその変化のメカニズムを分析しただけであり、それらが具体的にどのような影響を及ぼしたかには触れていないのである。表現技法がどのような受容を意図してなされたかは分析していても、肝心な受容分析を行っていない、と。多少は反論の材料があるものの、これに反論するのはかなり厄介。

多少意地の悪い見方をすれば、そのことに気付かせることで、むしろ自分の批判を納得させる(つまり認識を操作する)ことが目的ではないかとさえ考えられる。

確かにあの文はそれなりに構築したと思うが、「筋が通っている=正しい」というだけであれば、それは実のところ論理至上主義的でしかなく…作者の意図が読めていないという端的な事実をもとに考えていかなくてはいけない(真ー偽の二元論を超えて)。


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