月山富田城を見学した後、尼子国久など新宮党が館を構えていた場所に向かう。
狭い道を車で10分くらい走ると、田畑の狭間にそれは存在していた。
かつては八州の守護となった尼子氏であるが、その一翼を担ったのが新宮党で、その急速な拡大や不安定な出雲の平定に活躍した。
しかし、「謀聖」とも呼ばれた尼子経久の孫でその最大版図をなし遂げた晴久の時代に粛清されたのであった。
このあたり、後世の軍記物は毛利元就の策略とするが、同時代の史料には全く登場せず、事実無根であるか、もしくは厳島の戦いのようにかなりの程度「盛られている」可能性が高い。
おそらくは、大寧寺の変を見て近臣のクーデターを警戒した晴久やその周囲が新宮党を危険勢力とみなして先制・粛清したという辺りが実態だろうが、ともあれそうして翼を自らもいだ尼子は(実際、陶と毛利の争いの時に尼子は隙をついた軍事行動はできていない)、さらに晴久の急死によって力を急速に失い、毛利に滅ぼされたのであった。
そんな尼子の辿った運命を思うとき、もはやただの荒れ野にしか見えぬ館跡は、「諸行無常 盛者必衰」「国破れて山河あり」といった言葉を思い起こさせるものであった。
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