マンハイム 『イデオロギーとユートピア』:毒書会覚書 1

2023-03-07 17:00:00 | 本関係
 
 
 
 
 
 
 
『イデオロギーとユートピア』を読み解くにあたり、当時の社会情勢に関する知識があると極めて理解しやすい。ルカーチなどとの関係性。ハンガリーの共産主義革命(ベラ・クン)と挫折。ホルティによる権威主義体制の志向(ハンガリーって実は天才多い?ノイマン、ゲーデル、シュンペーターなど。オーストリア・ハンガリー二重帝国という観点ではポパーやフロイト、ヴィトゲンシュタインなども含まれる)。って何人か強烈なのがいるため印象に残るが、数的には特殊ってほどでもないかwさて彼らとの関係性は?『イデオロギー~』刊行後にフランクフルト大に在籍。フランクフルト学派との関係性は?
 
 
第一次大戦後のヨーロッパの世界認識。シュペングラー『西洋の没落』。民族主義・資本主義→帝国主義の破滅的選択。ロシア革命→共産主義=反帝国主義がアジアにおいても旗印になった理由(cf.インドネシアではブディウトモやサレカットイスラームからインドネシア共産党へ。ヴェトナムでは東遊運動からインドシナ共産党へ)。
 
 
ヴァイマル共和国における価値観の流動化。ドイツ国内においてはローザ・ルクセンブルクらが率いるスパルタクス団(過激左派)の蜂起。あるいはルール占領とそれへの反発などを背景としたナチ党(過激右派)のミュンヘン一揆。それら左派・右派の間でベルンシュタイン的な社会民主党が何とか政権を運営(ただし1929年=世界恐慌勃発時の段階ではまだナチ党も共産党も躍進はしていない)。流動的情勢への不安と第一次大戦敗北と賠償への不満(銃後の人々は前線の惨状を理解せず→さらに上層部が責任逃れで述べた「背後の一突き論」がこれを正当化)がマグマのように伏流し、世界恐慌により一挙に噴出した。
 
 
それまでは、ドイツとソ連のラパッロ条約(連合国から嫌われている者同士の提携)→フランス・ベルギーのルール占領→アメリカのドーズ案→ロカルノ条約→国際連盟加入という流れのように、紆余曲折ありながらもドイツは国際社会への復帰の道を歩んでいた(ソ連との提携については、トルコ共和国のソ連接近をちらつかせてのセーブル条約破棄とローザンヌ条約締結も想起。また、ドイツ国防軍のヴェルサイユ条約の穴抜けによる軍備増強についても注意する必要あり)。
 
 
国際政治のレベルでは、軍縮や不戦条約の締結も留意。ヴェルサイユ体制やワシントン体制を基軸としながら、国際政治も流動的だった。
 
 
カール・シュミットのような思想が登場し、かつ支持される背景。ルサンチマンと「アーリア人種」の思想。まるでバビロン捕囚を被ったユダヤ人が、選民思想という結論に至ったかのごとし。かつ、政党の暴力的な活動(たとえば敵対政党の排除)が日常的に行われていた。『イデオロギー~』刊行後ではあるが、1933の国会議事堂放火事件による共産党非合法化も想起。ナチスの授権法施行までのプロセスを仔細に見ていけば、当時のドイツの政治が抱えていた問題点もよくわかる(その他、カトリック政党の中央党を、「共産党が政権取ったら宗教弾圧されるで」と脅して授権法支持に回らせたことなど)。
 
 
日露戦争の世界史的インパクトを今日の我々が適切に理解する(追体験する)のが極めて困難なように、ロシア革命から間もない戦間期において、共産主義がどれほどのインパクトを持っていたかを今の私たちが適切に理解するには相当な努力を必要とする(逆に言えば、混迷の時代における排外主義の隆盛=民族社会主義の躍進という特性は、今日でもブレグジットやFNの躍進、トランプ現象といった形でつぶさに観察できるので、そこまでの想像力を要しないように思える)。
 
 
「戦」間期という、二つの惨劇の合間の凪のように見えて実際はカオスに満ちた動乱と流動性の高い時代背景を知ると、マンハイムがこのような著作を出した(あるいは出さざるをえなかった)経緯というのもよりよく理解できる。
 
 
ただそれだけに、マンハイムの知識社会学は極めて危うい側面を持っている。それは単にまだ学問として確立されたなかったということだけによるのではない。マンハイム自身がイデオロギーへの「レッテル貼り」に堕さないよう、既存の思想類型(もしくは特定の単語)に当てはめることで何かを説明しようとしたとするようなアプローチを拒絶し、整合性を逸脱したノイズまで描写の中に取り込もうとしたことにも原因がある(それは同時に豊かな可能性への道を開いたことも注記しておきたい。ちなみにこのような矛盾を精確に描写しようとすることは、冷酷な虐殺者が身内には優しいといったしばしば見られる現象の理解においても重要である)。
 
 
さらに言えば、イデオロギーの分析は、当時の社会情勢から、アカデミックな視点を持ちながら同時に「時局論」的であらざるをえなかったからだろう(革命に身を投じたルカーチと袂は分かったものの、マンハイム自身も現実の政治からただ身を遠ざけて事態を静的に分析することを是とするタイプの人間でもなかった)。このような危うさを考えると、マンハイムが意図してエッセイ的なスタイルを採ったのもむべなるかなと言える(戦後ハイデガーがロゴスで語りえぬものを語るため詩的言語を用いるようになったことも想起したい)。
 
 
マンハイムの扱うレンジは認識論(コスモロジー)であり、歴史(認識)であり、階級分析であり、「政治哲学論」論であり、またそれらの往還運動であると言える(ウェーバーなどはもちろんとして、デュルケームの集合的沸騰や社会分業論なども重要な参照項)。党派的なレッテル貼りの不毛については、以下の動画も参照(これは同じ「右」でも、平泉澄と蓑田胸喜では全く異なることなども想起したい)。
 
 
 
 

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