マンハイム『イデオロギーとユートピア』序文の覚書

2023-02-25 11:59:19 | 本関係
「物自体」が決して観測し得ない以上、対象から距離を取りただ外的に観察することが客観を保証する、などという立場は成り立たない。そうではなくて、あくまで我々が物を見るとき不可避的にそこへレンズの歪みが生じることを前提とし、その歪み方やその理由を炙り出すことこそ重要なのである。


個人に着目する心理学→主観。外的観察によって一般的傾向を分析する自然科学→客観。その両者が見落としてしまうものがある→時代の知の志向性(かつて宗教的世界観が世を覆っていた時は、それはもっと単純だった→いやいやイスラームでもオマル・ハイヤームみたいな人もいまっせとは言いたい)。それを探りたい。コスモロジー、フーコーのエピステーメー、クーンのパラダイムと近似するものがある。社会学。デュルケーム→集合的沸騰。チ。と地球平面説、科学革命、科学至上主義。私がよく言うのでは、「脱亜入欧的オリエンタリズム」。日本的なイデオロギーとユートピアの語りはかなりこの枠組みに影響されている(あるいはその反作用として鎖国的島国根性が発揮され我々はそのままで素晴らしいんだ!みたいな言説も登場→原理日本社)。


イデオロギーを唱える側からすると、不変の真理(あらゆる状況に適合するもの)として提示している体系が、実際はある特殊な社会的状況から生まれ特殊な状況にのみ適応可能にすぎない、と言われる危険性を帯びてもいるので、そら反発するやろなあ(思想や宗教をカタログ的に提示するという意味ではヘーゲルの『精神現象学』、さらにもっとシニカルな要素を強めれば浅田彰の『構造と力』)。地獄や天国はあるのか?ではなく、そういう発想はどこから来るのか?という話。偽史に見る歴史認識。


フロイトの精神分析。要は、近代的人間像を説明するのに便利なモデルという話であって、超歴史的な人間一般に当てはまることではない。

生まれと育ち、両方の要素がその人を形成するのに、片方しか見ないのはおかしい。心理学は言わばそれに近い愚を犯している。個人的なことは社会的なことである、という言葉を想起。


プロテスタンティズム→救済の主観化→個人主義・フロム。


大量の下級ホワイトカラーのマインド。アイヒマン、凡庸な悪。あるいは「無能な働き者」。


政治哲学、政党、党派的思考、認知的不協和


「宗教と思索」、「私を縛る『私』という名の檻」など。イデオロギーや宗教に対する解像度が上がった契機。~教はとか…主義といった個別の話ではなく、体系が存在するという一般的な思い込みへの気付き。ではなぜそのような体系が存在すると思い込むのか(ハラリの『サピエンス全史』ともつながる)?世界の体系的理解への欲望。意味論。あるいは宮台


具体的な分析・適応例
日本宗教論の語られ方に見る「脱亜入欧的オリエンタリズム」。欧米との比較において日本特殊論が展開される一方、アジア地域、中でもそれなりには影響や関連性が見られる東アジアやインドとの比較検討は全くと言ってよいほど抜け落ちるところに、学問的妥当性とは全く関係のないこのバイアスを見出だすことができる(あくまで学術的検討の視野に立つなら、日本の多神教やシンクレティズムが語られる時、なぜインドのヒンドゥー教=多神教であったり、朝鮮半島・中華地域で見られる宗教の混淆[仏国寺の様子や全真教などなど]が言及されないのか理解不能である)。

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