『キリスト教と日本人』を読む

2020-05-17 11:50:00 | 宗教分析

昨日は英語の多様性(”Englishes”)について触れた際に宗教も同じだと書いたので、それに絡めて今回はキリスト教(と日本人)について書いてみたい(なお、このテーマは2017年に一度触れている)。

 

「同じ」の意味はもちろん共に多様ということもあるのだが、それだけではなく、「しかしそれにもかかわらず、日本人は正しい英語(宗教)があると思い込んでいる」という点にもある。どういうことだろうか?私は度々日本人の無宗教とその背景について論じてきたが、そこでは「キリスト教を理解できない日本人」という固定観念が、明治期以来の脱亜入欧的オリエンタリズムとしていまだに日本人を縛っていると批判してきた(そして大体それは日本の多神教的土壌という認識とセットになっているのだが、古代ローマ帝国や中近東をはじめとして、一神教は元々多神教だった土壌に広がっていったのでありこれは論理的に成立しえない、と書いている)。

 

というのも、そもそもそのような主張が成り立つには「正しいキリスト教」なるものが措定されていなければならないが、どういうわけかその定義がなされた上でこの部分が違う、などと論じられたケースは見たことがない。「キリスト教」と一言で言っても、カトリック以外にカルヴァン派、ルター派、福音派、ギリシア正教、ギリシア正教、原始キリスト教、単性論派etc・・・が存在するし、それらも地域によって土着の宗教状況に影響を受けて変容を見たりしていることは韓国のキリスト教の記事でも指摘したとおりである。そもそも、「元ある形がそのまま温存されていることが正しいのだ」という立場を取るのであれば、日本の仏教も相当インドのものとは変容している。しかし、それをもって日本の仏教を仏教ではない、などという主張はほとんど聞いたことはないだろう(そう主張する学者もいることはいるが)。ならば、日本の仏教を「日本の仏教はこうである」と主張するのと同じように、「日本のキリスト教はこのようなものである」という主張をしない(正確に言えばそういう思考実験をしようとしているようにすら見えない)のはどうも不可思議なことだと私には見えるのである。

 

なーんて書くと、もちろん「そんなことを言ったらキリスト教にどんなおかしな発想を付け加えてもキリスト教なりと強弁できてしまうのではないか!」と違和感・反論が出てくるだろう。そういうわけで今回お勧めするのが、『キリスト教と日本人』(ちくま新書)という書籍である(ちなみにこれは2019年10月の毒書会時に丸の内オアゾの丸善で購入したもの)。

 

誤解のないように言っておくが、この本は「日本人が信じているキリスト教はキリスト教なりや?」といったテーマを衒学的に論じるものではない。むしろ、ここでの記述は多くの日本人がぼんやりと持っているであろうキリスト教、イエズス会、あるいは日本人とキリスト教といったものへの固定観念を相対化することに非常に資する内容なのである。

 

例えば戦国時代に関しては、イエズス会宣教師たちの布教戦略について、そこには宗教的情熱だけでなく、貿易の利潤追求(布教の原資を作る)、戦争支援(キリシタン大名の勢力拡大)、植民地化(いっそフィリピンみたいにしちゃう?)という取り組み・オプションも存在していたことが描かれており、それらが寺社仏閣の破壊と併せて秀吉や家康の警戒・禁教へとつながったことを説明している(ちなみに16世紀後半はポルトガル併合によるスペインの強大化という要素はあったものの、1568年から80年に及ぶネーデルラント独立戦争が始まっており、1588年にはアルマダ海戦でイギリスに手痛い敗北を喫している。逆に言えば、もし日本のキリスト教禁教かネーデルラント独立戦争のタイミングがズレていたら、日本に対して軍事行動が行われた可能性もありえた、と言える。もちろん侵略行為に対して日本は軍事的に抵抗したであろうが、もし仮に日本の一部、たとえば九州が植民地化されていたら、フィリピンのようになっていたことは十分ありえるだろう。その意味では、マッカーサーが日本にキリスト教を広めようと一時期考えていたのと同じで、日本の現在の宗教状況は様々あった可能性の中で偶然現在のものになったと見るのが適切だろう)。

 

ここで相対化されているのは、宗教=思想だけにまつわるものであるという発想(それは政教分離の理想が生み出す、歴史の実態を無視した妄想である)、キリスト教=平和主義という発想、ゆえに弾圧されたキリスト教徒や宣教師は一方的に被害者であるという発想だったりする。十字軍や魔女狩りなどが典型だが、キリスト教の「負の側面」などいくらでもあるわけで、戦争協力や植民地化の思想も同じだ(ちなみに十字軍は人口爆発による土地不足→領土拡大という側面があるのは有名な話)。歴史の実態をみる限り、「日本政府=加害者・キリスト教徒=被害者」という安易な二項図式はプロパガンダ以上の意味を持たないと言えるだろう。

 

また明治期以降にキリスト教が広がらなかった背景として、私は江戸期に200年以上に渡って醸成された邪教観の影響は大きく、かなりのビハインドからのスタートだったと私は書いたことがある(特に農村でその影響は色濃く、当時日本の80%は農民が占めていたので、相当な逆風だったと言える。この中で、プロテスタントは主に士族などの知識階級、カトリックは福祉事業を通じて貧困層にターゲットを定めて布教していったのだ)。そしてそれだけではなく、仏教側の「耶蘇教排撃」の演説、学校教育におけるキリスト教要素およびクリスチャンの教師の排除、井上哲次郎のキリスト教批判(『教育ト宗教ノ衝突』)と知識階級への影響などなど、キリスト教を批判する動きは各方面から行われていたのであった。

 

誤解をしないでほしいが、私はこれらが原因でキリスト教が日本には広まらなかったのだ、と断定しているのではない。そうではなく、こういった現実の施策や社会背景を無視して(もしくは無知のまま)、「日本人の宗教的観念はキリスト教とそぐわないから広まらなかった」という具合に思想面しか見ようとしないのは、ナイーブすぎて話にならないと言っているのである(ただ、戒律・禁欲という観点で言えば、プロテスタントの人々が禁酒を厳格な形で行った、というのは非常に興味深い。これは自分たちの信仰をわかりやすく外的に示すためであったのだが、天台宗の戒律簡略化と民間への広がりとは真逆だし、遊牧民のトルコ人が飲酒の習慣を維持するためにイスラーム法学派の中で最も「緩い」ハナフィー派を採用したのとも反対で、おそらく信徒を増やす上では逆風になっただろうと思われるからだ)。

 

以上のように、日本人のキリスト教やそれとの関わりについての固定観念を解きほぐすには最適の書の一つであるのは間違いない。ぜひ一読をお勧めしたい。

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