「鎖国」も無理だし、「江戸時代への回帰」も不可能である

2022-01-30 12:10:00 | 生活

 

 

この動画は江戸時代の村落の成り立ちや特徴を説明したものだが、様々な共有材(コモンズ)を利用する上での厳しいルール設定と罰則、それに伴う監視機能と同調圧力(五人組といった連帯責任制も関連)、疑似家族的な近しさが可能にする名前のみの呼称などなど、その性質を掴む入口としては格好の材料と言ってよいように思える。

 


さて、「鎖国」やら「江戸時代」やらへの回帰を唱えるような言説が時に見られるが、本気で言っているのであれ、はたまた何かの意図の上であえて言っているのかであれ、それは果たして可能なのだろうか?

 


冒頭の村落共同体の特徴を踏まえつつ結論から言えば、「鎖国」は不可能だし、「江戸時代のような社会」への回帰も世迷い言の域を出ない妄想である(なお、この話は現代日本におけるコンサマトリーが「ゆりやかな死」と同義であるとか、時に称揚される「清貧」なるものの内実が極めて不明瞭で情緒的反応の域を出ない、といった記事に関連する)。

 


まず大前提として、この時代は農業(第一次産業)の就業率が極めて高く、近代化を促進し始めた明治初期でさえ、それが全人口の80%を超えていたほどである。よって、「江戸時代のような社会」への回帰を想定するなら、冒頭にあるような村落共同体が支配的である状況を想定せねばならない(もし仮に、「江戸時代」なる言葉で想起しているのが専ら「江戸」や「大坂」のような都市であるとすれば、それは実態と全く乖離しており、それを「江戸時代」などと呼ぶのは欺瞞の最たるものだろう。それはあたかも、「三丁目の夕陽」を見て、その成立背景や諸々の問題を無視し、理想郷のようにみなすのと似ている)。

 


以上のような条件設定を元に、では江戸時代の村落共同体が支配的になる要件は何かと考えてみれば、それは「流動性の低さ」と表現できるであろう(ここで「鎖国」の話が関わってくる)。

 


江戸時代において、人の移動がかなり制限されていたことはよく知られている通りだ(ゆえにこそ、お伊勢参りのような、その束縛から逃れられるイベントが流行ったりもする)。つまり江戸時代、わけても村落共同体は人の流動性が低いわけで、そのような環境で共有材を分かち合わねばならない農業や林業という生業に従事するからこそ、厳しい共通ルールが設定され、互助的な運営が成されていた。そこでは、同調圧力や監視機能が、包摂機能とコインの裏表のようなものだったと言える。

 


ここまで書けば理解されることと思うが、今日それを再現するのは色々な点で不可能だ。そもそも、成熟社会を経た今、農業人口がかつてのように増えることを想定するのは非現実的である(農作業をアウトソーシングする外国人実習制度を例にすれば、思い半ばに過ぎるというものだ)。とすれば、そもそもサービス業(第三次産業)にする人が過半の状況で、共有材の発想を媒介にした互助的運営が必然的なものとして受け入れられることもまたありえない。

 


次に、移動の制限は可能だろうか?まあ百歩譲って、国外に対しては不可能ではないだろう。とはいえ、国内を江戸時代のように移動制限することは不可能であろう。移動の自由という法的な問題は当然として、そもそも江戸時代的な関所がこの現代社会に機能しうるだろうか?ベルリンの壁的なるもので県境などを取り囲むのか?はたまた首に何かつけて境界を越えた瞬間に爆発するものでも取り付けるのか?率直に言って、そのようなものを技術的に可能にする方法を考えてる暇があるなら、イノベーションにリソースを割いたらどうかという話である。

 


これで終わりではない。次の要素として、情報の制限が困難である。そもそも、ここまで情報化社会となったところから、個人的・局所的にはともかく、社会の大部分がそれをシャットアウトした状態に戻れると思うだろうか?例えばネットを全て停止したらと考えれば、経済もあっという間にストップすることは火を見るより明らかである(ここでエネルギー資源やら食糧資源やら、生活に直結する要素のことをいちいち取り上げるまでもあるまい)。

 


要するに、社会が極大の影響を受けるためかかる施策は不可能であり、そうである以上、情報は今とさほど変わらずオープンな状態のままであり、ゆえに他所の環境や出来事はあっという間に広まる。となれば、今よりよい条件の場所(共同体ルールや雇用条件)を見つけることは容易で、ゆえに人はすぐ移動するし、流動性を止めることができないわけだそうである以上、流入した人々は元からあったルールを不合理だと感じれば従わないし(旧住民・新住民問題)、いつでも移動可能なためフリーライダーの発生を止めることもできない。

 


よって、繰り返しになるが、江戸時代的なコミュニティは成立(少なくとも継続)しえないし、少なくともそれが一般的になることは決してないと言えるのである。

 


まとめると、現代社会は全てが網の目のように繋がっているため、どこか一ヶ所を変えれば解決するものではないし、ましてそれでかつてのような社会システムに回帰できるわけではない。ゆえに、「鎖国」やら「江戸時代」を持ち出してそれに戻ればよいなどと考えるのもまた、複雑な現実を考えない幼児的妄想の域を出ないと言えるだろう。


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