明治期排耶論の背景:江戸時代からの連続性と政治的意図

2017-10-18 12:23:22 | 宗教分析

 

今日の日本人の無宗教について論じる時、その多神教的性質が言及されるとともに、それとは真逆の、すなわち一神教のキリスト教が日本に普及しなかったのだ、と言われることが多い。

 

しかしながら歴史を見てみるに、そのようなメンタリティにのみ依拠した説明は粗雑以外の何物でもなく(というより結果から逆算してそうなりそうな要素を集めているだけ)、政府の政策・弾圧といった外在的要因、あるいは経年変化にも注目していくべきである。その一例として、私は神仏分離令による民衆運動としての廃仏毀釈のうねり(=神仏習合は変更不可能な根源的日本宗教の性質であるという説明への疑い)であったり、キリシタン弾圧や植民地支配の有無といった事柄に言及してきたのであった(なお、このような視点は「保守」がしばしば言及する日本・日本人像の虚構性とも関連する。たとえばdilligentな日本人、punctualな日本人などと言われたりするが、それは近代化され統一的な時間管理をなされるようになった後のことであり、それとて産業革命後すぐにではなく、戦中に培われた部分も大きい。また専業主婦や終身雇用制なるものが歴史の極々一部でしか見られず、日本の近代化後からずっと続いてきたわけではないことも少し調べればわかる事実である。一体彼らは本当に日本のことに興味があるのだろうか?単に自己と国家を重ねてそれを自己肯定あるいは承認の道具に使っているだけではないか?と疑問に思う所以である)。

 

その一環として今私は明治期のキリスト教がどのような立場に置かれていたのかを書こうとしているわけだが、一例として、排耶論(キリスト教排撃論)の説明をしている動画があったので転載させていただいた。長いスパンで例を取り上げているので一つ一つは「薄味」な感は否めないが、とはいえ明治期のキリスト教の置かれた立場が江戸時代から連続性を持ったものであったことを理解する一助にはなるだろう。

 

補助線を引いておくと、欧米列強による外交的圧力のため、確かに政策上のキリスト教の扱いが変化していったのは事実だ。しかしそれを実態の変化=民衆のキリスト教観念の変容と見倣わすのはミスリードとなる、ということである。明治政府は、外圧によって国家レベルでのキリスト教禁圧が難しくなった後、廃仏毀釈の後で教勢を復活させんとする仏教(特に本願寺派)を上手く利用して、キリスト教普及の防波堤に利用しようとした。そのような意図の元に排耶論を見ていくとよいのではないだろうか(つまり、中身をリテラルに受け取ってその妥当性を云々しても大して意味はなく、政治的意図=機能主義的に理解する方が実りがある)。

 

【補足】
ちなみに私はこのような記事をもってキリスト教弾圧を批判したいわけではない。たとえばだが、今日の我々の感覚からすると、岩倉をはじめとする遣欧使節団が、アメリカなど行く先々で大統領やら民衆やらにキリスト教の自由化を迫られたのに対して「内政干渉」と反発したのは、いささか過剰反応であるか、神道国教化を目的とするがゆえの為にする言説と見えるかもしれない。その要素もなしとは言えないが、同時に1850年代~1860年代の時代背景を考慮する必要がある。たとえば1853年のクリミア戦争は聖地管理権問題とギリシア正教徒の保護を口実に始まったし、1856年のアロー戦争にフランスが参戦した理由はキリスト教宣教師の殺害であったのだから。このような状況からすれば、キリスト教布教がひとり宗教の自由化問題に限らず、欧米列強の植民地拡大と結びついていたことは否定できない事実であり、明治政府側の反応はその意味でリアリスティックなものでもあったと評価できるように思われる(ちなみにキリスト教布教・普及と植民化の問題は、フィリピン、アメリカ大陸、アフリカ大陸と枚挙に暇がない。たとえばこの時代ならリヴィングストンによるアフリカへのキリスト教布教が有名であるが、それはスタンリーのアフリカ探検、ベルギーのコンゴ領有、1884年のベルリン会議による先占権ルールの取り決め、そしてアフリカ分割へとつながっていったのであった)。

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