寺子屋かAIか?:急速に発展するAIの中で、学びの形態はどうあるべきか

2023-12-31 13:12:43 | 感想など

っていう記事を、オンライン予備校の「ただよび」復活前に準備していたのだが、どうにも仕上げのタイミングを逃し、かと言って塩漬けにするとますます価値の無い文章になってしまうので、ここいらで生煮え配膳を敢行しようと思った次第(・∀・)

 

言っていることは要するに、「大教室へ大人数を詰め込んで、全体へ一方的に伝える形式の授業はもはやオワコンだ」という話だ。統一的に同じことをインプットさせたいなら映像を用いて年々ブラッシュアップさせていけばいいし、もちろんそれでは聞かない生徒だの定着したかわからん生徒だのがいるから、それを管理するのが教師という風に役割を変える。で、可能な限りコンテンツを進めるスピードは各々変えて、習熟度別にすると。

 

一方で人が人に教える形式を取るなら、それは「寺子屋」のようにというか、少人数で双方向的にやり取りをしながらお互いに問いかけあい、答え合いながら理解を深めていく手法が取られるべきではないか、という話(ただし寺子屋も日常的な読み書きそろばんをとにかく慣らして体得させるみたいね場所も多かったので、一概にこれを近代以降の学校教育の様態と対照的なものとして語るのは問題があるのだが)。

 

今のシステムって、官僚主義的に金太郎飴を量産したいなら合理的だが、そうでないならもはや時代遅れと言える。現状の問題がAIか少人数のシステムにすることで全て解消するなどとは全く思わないが、旧態依然とした仕組みを維持する意味とは一体何ぞやというところまでは来ているのではないか。

 

もちろん、繰り返しになるが、教えることと相手の理解・習得は全くイコールではないし、例えば課題の指示を出したとして、それを実行するとは限らないから、その実践のチェック係やモチベーター・カウンセラーとしての人間は必要である(そもそも給料をもらってる仕事でさえ飛ばしたりサボタージュが存在するのだから、いわんや学生をやである)。しかし、生身の人間が教えるアドホックな語りを長々と聞かねばならないのは、しばしば苦痛でしかないのである(もちろん、知識が豊富で人間活力やトークに優れた教師も中には存在するが、一体その割合はどの程度なのかという話であり、しかもAI技術が進化すればするほど、それに匹敵する人間の割合は減少していくだろう)。

 

というかAIによる授業がどんどん広がっていくだろうし(実際You Tubeのようなプラットフォームがリカレント教育を含めそういう役割を担いつつある)、それに紐づいた問題集をやらせてAIがどこが弱点でどの問題をくり返しやった方がいいのかを提示してそれを実践する、という仕組みの方が明らかに合理的だからである。

 

というあたりに説明書きはしておいて、以下が元の動画と原文である。よくよく考えれば、これは西きょうじがただよびに参戦する前振りだったのだが、二人の教育観の話としてもおもしろいので、参考までに。

 

 

 

 

 

 

多人数を教室に詰め込んで、同じことをやらせる時代は終わった。寺子屋かAIか?言い換えれば、前者の「双方向の対話の中で関係性を構築しながら切磋琢磨し壁を超えていく」のか、あるいは後者の「高度なオーダーメイド」か。

 

「ファスト教養」の話。とにかく効率化を求めるのではなく、「なぜそうなるのか?」を思考する人をどうやって育成するか?西きょうじの言う「9敗1勝でいい」というのは重要なマインドである一方で、これからレールに乗ったりレールに乗り続けたい人たち=実は最もその言葉が重要な人たちには全く響かないだろうなあ・・・(お前は成功者だからそんな余裕ぶったことを言ってられるんだろ、となる)。

 

とするなら、それなりに功なり地位を得た人たちが、保身に走って右往左往している姿をつぶさに観察させた方がよい。2023年は損得マシーンの反面教師だらけ。わかってても言い出せなかった。空気に抗えず不合理な選択に加担する。これを国家レベルにしたら、先の大戦になるというわけだ。

 

じゃあそれは昔ながらのメンタリティを持った人たちがやらかした話で、これからはそういうことは起こりえないのだろうか?いや、若年層について評される「ゼロリスク世代」のメンタリティと同じじゃん。要するに、全く同じことが起こるんじゃね?って話。

 

もちろん、「近頃の若いやつは・・・」みたいな愚痴は馬鹿げている。というのも、それを生み出した社会を作ったのは誰なんや?て話になるから。今は中年・老人となった大人たちこそが、その若者(を育成する環境)を生み出したんちゃうんか(2023年の不正を行った者たちがどういう年齢や立場の人間だったか、よく思い出してみるといい)?よくもまあしゃあしゃあと、「自分は関係ねーよ」みたいな面してるわな。私はジャニーズ問題を「皆が知っていた」なんてのは過剰に一般化しすぎだと思うが、とはいえこの事件を見て社会全体に共通する構造的問題だと理解できない人間には、あまりに論理的思考や分析力が欠けていると思うね。

 

ではジャニーズ問題・マスメディアの本質は??まあここで終わってもしゃあないので、解決策の一つは多重な帰属。一つしかないから、しがみつかざるをえなくなる。メンバーシップ型の弊害。言い換えれば、多重な帰属を認めない閉鎖的世界は、その時点で常に腐敗・破滅と隣り合わせ。日本を出れるようにしといた方がいいよ、て言う理由。「日本にしがみつくしかない」てのと、「選べるけど日本に残る」てのは意味が全く違うのよ。

 

「寺子屋」的あり方。効率しか求めないことの害悪は趣味嗜好の問題ではない。例えば伊藤清の方程式→後に金融業界に大きな影響。しかし伊藤本人ですら、その価値を理解してなかった。ファイヤアーベントではないが、想定外の知のブレイクスルーには往々にしてある。だから、回り道に思えても、地道な基礎研究(理学的な知)が大事なのだ。効率しか求めず、「何の役に立つの?費用対効果は?」というまるで小役人のような思考は、上手く立ち回っているようで、中長期的には停滞と没落への一里塚。

 

だから、コスパやタイパ重視の考えや「ゼロリスク世代」と「ファスト教養」の志向は、この先50年の停滞・没落を意味する。ただ、何回も言うが、今述べたような価値を提示するのはよいけれども、そこにコミットする動機付けも確保しないと無理(ただの理想論にしかならない)。ゆえに私は企業など含めた社会システムの変化はもちろんだが、繰り返し短絡的な自己責任論を批判してきた。なぜならそれはとにかくリスクを避けて型にハマろうとする人間を生み出し、萎縮・萎縮・萎縮・・・という志向につながるから。そういった前提条件を緩和することなしに、「だってそれはあなたに余裕があるからですよね?私には無理です」て言われたらどう返答すんかねの?

 

クーン。科学というものを進化論的に、つまり単線的・必然的な発展の歴史として理解したくなる。それは科学が宗教と同じで世界を体系的に理解したいという欲望に基づいているから。ゆえにカオスよりコスモスの方が納得をえやすい(これはステレオタイプや陰謀論が跋扈しがちな理由でもある)。しかし現実は、自分の世界の三層理解でも言及したように、そもそも世界というものはカオスであり、それを人間が自己の利便性のために体系立って記述しただけのことで、都合の悪い世界の見通しがたさ(偶然性)は無視・軽視されがち。それを裏切るような事例は数多ある。

 

よって、ある探求が想像だにしなかった知のブレイクスルーを産み出すことがあるのは、歴史に学ぶという態度を持ってさえいれば、本来驚くべきことではない。だから、伊藤清の事例は、本人ですら自覚していない。目的合理的にその補題を発見したわけではないからだ。これが理学的知を軽んじることの愚かさ。工学的知はいかにもわかりやすく短期的な成果に繋がる合理的なアプローチに思えるが、歴史を知ればそれは巨像を撫でる盲人の錯覚に過ぎないと気付くはずだ。


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