「鎖国」・「コンサマトリー」・「清貧」:それらは閉塞感と思考停止を糊塗する言葉遊びに過ぎない

2022-02-01 17:00:00 | 生活

前回の記事において、人や情報の流動性を止められない以上、「鎖国」はもちろん「江戸時代への回帰」も不可能だと述べた。

 


もう少し踏み込んで言うなら、このグローバル社会において、国内外を問わず人の移動を極度に制限し、情報も極めて限られたものしかアクセスできない状況というのは、北朝鮮のごとき強権的体制でなければ実現不可能である。

 


「鎖国」や「江戸時代(への回帰)」といった言葉を、その成立条件や今日的状況との隔絶を真摯に吟味することもなく口にしている連中に、そのような社会を受け入れる覚悟もなければ、ましてそれを達成するビジョンなどありえない、という話だ。以前批判した「コンサマトリー」や「清貧」と同じく、未来への閉塞感や諦念を、そういった言葉遊びで糊塗するのはやめ、徹底的に絶望するところからスタートする必要があるのではないだろうか(まあもっとも、そういった絶望から破壊的な行動に短絡する人間が少なからず出てくることを予測し、あえて「そこまで悪くもなさそうな未来」という曖昧な空手形を出しておく、というのなら意図としてはわからなくはないが)。
 


ここから先、ブータンの事例を用いて「知る」ことによる「不幸」やらに言及しようと思ったが、いささか視点が変わってくるので、稿を改めて取り上げることとしたい。


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