天下布武 三日目:永平寺からの・・・アイシャルリターン!!

2022-08-18 11:42:42 | 畿内・近畿旅行

 

さあて長い旅路の末に永平寺の中を見学できる・・・と思っていたのか(・∀・)!!

 

道中の仮眠もあって、すでに時計は17:00を回っておる。ワイにできることは、ただ周りからその威容を眺めるだけや😭

 

 

 

巨木や苔むした仏塔が歴史の風雪に耐えてきたことを物語っておるワイ。

 

 

このアングルだとまるで料亭みたいだネ。

 

 

最後にもう一度境内を撮影し、その場を去ることにした・・・アイシャルリターン!!!

 

 

 

いきなりこれは何だって?夜の永平寺だよ(・∀・)

 

 

とか言うほどには疲労困憊(延暦寺白髭神社→永平寺→湖南の強行軍)で脳みそが変色してるため、スーパー銭湯で一日の疲れを取りマッスル( ̄▽ ̄;)

 

 

というわけで生まれたままの姿になって温泉に浸かる。

 

おおおおお、生き返るわ・・・(*´ω`*)

 

一通りリラックスしたところで、昼間何とはなしに考えていたことの続きを再開。

 

柳田の「新国学」について批判的に取り上げたが、正確に検証するためには、不都合な要素にも目を向けなければならず、評価はその後にすべきということだ。なお、評価や解釈がわかれるのは人文科学に特徴的なことだと思われるかもしれないが、実験という形でファクトを積み重ねていく自然科学に関しても、自身の世界観に反する実験結果の解釈などを頭ごなしに否定・黙殺してきた事例は科学革命の後ですら様々な事例が存在する(この事例として、以前も取り上げたが「産褥熱の病理」に関しての動画を参照)。つまり、それほどまでに人間は自分に都合良く解釈をしがちであり、(何度も強調するが)だからこそ意識的にそういう性質と対峙し続ける態度が必要不可欠なのだ。

 

さて、「自由に検証できる環境」としてオランダを連想するのはそう特殊なことではないだろう。実際、宗教的・思想的に自由な風土の元にカルヴァン派が集い、かつデカルト、スピノザ、グロティウスといった知の巨人が活躍した。そしてそのような自由主義の性質は、今のオランダにも受け継がれているように見える。さらに言えば、オランダの国土は絶え間ない干拓で居住できる環境を作り出した勤労とも結びついており、このような性質が商工業の発達(cf.カルヴァン派は商工業者が多い)とも絡み合い、17世紀には一時スペインやイギリスといった大国と覇権を争うほどに成長したのであった(このような特徴から、ある種日本と類似していると考える人もいるかもしれない)。加えて、オランダが宗主国スペイン(ハプスブルク家)と80年戦争とも呼ばれる長い独立戦争を勝ち抜いたことから、その躍進はよりドラマティックなものに感じられるかもしれない。

 

ではオランダは、「小国ながら勤勉で思想的自由と技術革新を結び付けたすばらしい国」とだけ評価できるのだろうか?オランダがその技術力・資金力をもって進出した地域でやったことを想起すれば、そう単純なことは言えないだろう。例えば東南アジアなら、香辛料貿易のためにライバルのイギリス東インド会社の商館を襲って全員虐殺したアンボイナ事件、オランダに反抗した住民を皆殺しにしたラメイ島の虐殺事件、ジャワで実施されたコーヒーの強制栽培制度(背景には七月革命の余波で南ネーデルラント=ベルギーが独立)のような事例は枚挙に暇がない(ちなみにコーヒーの栽培は中南米における収奪も有名だが、こういった背景を知った上でコーヒーハウスの歴史的役割を指摘したハーバーマスの『公共性の構造転換』などを読むと、また違った印象を持つのではないだろうか)。後に太平洋戦争で日本軍が南下してきた際、インドネシアが歓迎ムードだった背景には、こういった長く苦しい収奪の歴史があったのである(ちなみにこれをもって日本軍の侵略性が全てキャンセルできるというのであれば、フィリピンやシンガポールの反応をどう説明するのか聞きたいところだ)。

 

要するに、オランダの「勤勉さ」は他地域の過酷な収奪として結実したわけであるが、その収奪によって本国の繁栄が成立してもいたのであった(前述の強制栽培制度が施行された背景を参照)。これは19世紀ヨーロッパの帝国主義と、その利潤を背景とした自国の福祉政策の進展(ビスマルクの例がわかりやすいが、背景には台頭する共産主義・社会主義に対抗する目的もある)を想起すればよいだろう。

 

・・・とまあそういうわけで、少し角度を変えるだけでも全く違ったものが見えてくるし、よって評価も複雑な陰影に彩られることになる。これが現実の複雑性というもので、ゆえにその怪物と向き合うには、「虚心」になろうとする努力を怠らないわけにはいかないのだ(念のため言っておくが、「物自体」が存在しないように「客観」も存在しないので、初めからバイアスが加わることは織り込み済みでいる必要がある)。しかしそれにもかかわらず、予断を正当化するが如き態度は言語道断であり、それこそ「イデオローグ」や「宗教家」の態度と言えるだろう・・・というのが先の柳田批判の趣旨である・・・

 

そんなことを考えつつ、風呂の中で疲れも取れたところにてホテルに帰って寝ることにした。

 

明日もハードスケジュールじゃけー気張っていかにゃんねえ😀


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