新しく良いものを作り出そうとする行為を、一緒に考えるのではなくただ否定しようとする社会とその末路

2022-06-10 11:58:58 | 生活

「ランドセルをキャリー化」する小学生の発明が「炎上」しているらしい。

 

窪田順生のダイアモンドオンラインの記事を含めいくつかの記事やコメントを見ただけで流れを追えているわけではないが、私にはランドセルの代替物を発明しようとしているのになぜそれが炎上するのかよく理解できない、というのが正直なところだ。

 

仮に新しく開発されたものに問題点があるのだとしたら、それをどう発展的に解消すればよいのか考えることが合理的なのであって、もしそのような発想を持たないのだとしたら、

1.ランドセルは無謬の存在で欠点など一切存在しないと考えている

2.新しいものが導入されることが感情的に許せない

のいずれかであろう。

 

そしてランドセルについてすでに様々な問題点が指摘されている以上、それらを全て取るに足らない問題として反論できない限りは、2の可能性しかないと言える。え?ランドセルには欠点があったとしても、それを遥かに凌ぐメリットが存在する可能性はないのかって?だったらその場合は、先に述べたようにキャリー式のものを含め「発展的解消」を議論すればいいのであり、キャリー式のものをただ論難する行為にはつながらないはずだ。単に新しいものを非難するだけなのであれば、やはり2の感情的反発が先にあり、それを理屈(らしきもの)で糊塗していると考えるのが自然だろう(早い話、改良への意思はあるが安易な変更には慎重なのか、ただ既存のものへ頑迷にしがみついているだけなのか、という話)。

 

さて、窪田の記事はキャリー式に対する非難が2によるものであると考えた上で、そのような姿勢が日本のイノベーションを阻害しているという分析している。それを「『引き続き議論を重ねましょう』の一言で、イノベーションの芽がつぶされる、というのが日本のお約束」と表現しているが、もう少し広げてみよう。

 

新しいものに対する感情的反発自体は、日本に限らずどこでも起こりうる。だからこそ検証や議論が必要なのである。しかしながら、昔からよく見られる日本の「悪癖」として、とにかく両論併記というか総花的に意見を取り上げ、それぞれの妥当性を吟味して止揚したりすることなく終わってしまうということが少なからずある(仮に頭脳明晰でも、いやそれだからこそ、鋭利な理論を述べるよりかはなあなあな雰囲気に乗っかる方が自分の立場を危うくしないことに気づいてしまったりするので、そういった人々もこの環境を破壊するには及ばず、哀れこのグダグダ状況を打破しようとするのは頭が良すぎてグダグダさが許せない少数派か、もしくはそういう環境を理解できないような少しオツムの弱い少数派だけとなり、結局状況が変化しない、というのが日本の「空気」であり、また日本が遅々として変化できない理由ではないか、と私は思っている)。そこではクソも味噌も一緒くたであり(この前指摘した「喧嘩両成敗的イデオロギー」もその一種)、結局は決められないまま現状維持か、場合によっては声が大きいものに引きずられる結果となる・・・と考えてみると、いつぞやの戦争とカタストロフを連想し、実は全く成長してないんじゃないかとさえ思えてくるわけである。

 

窪田の記事に話を戻すなら、彼はそういうスタンスに対し、「せめて新しい芽をつむようなことをするな」という趣旨のことを書いて稿を締めくくっているのだが、まあこういう傾向は数十年変わらないことだろう・・・

 

これこそ、日本の未来には全く期待できないという話を私が繰り返し書いている理由である。前にもコメントの返信で「正しい未来予測は可変性を担保しない」と書いたことがあるが、要するに問題点を正しく認識して合理的な方策を取ろうとしても、負の斥力と吟味なき両論併記的志向性が出る杭を叩き、元の場所に引きずり戻してしまうのである。ここには、不安ベースでの発想、すなわち「ゼロリスク信仰」と呼ばれるものも背景にあると考えられる。すなわち、「何かあったらどうする!」と不安を叫ぶ声に引きずられてしまい、進むべき方向をっきちんと設定し、生じた問題については(腹をくくって)随時対処していく、という志向にならない。そして、「変わる努力をするくらいならば、変化を諦めて耐えろ」という大合唱が始まり、負の斥力として社会を停滞させていくのである(ちなみに私が「清貧」なる言葉を欺瞞的と感じるのは、それがいま述べたようなメンタリティから生まれた思考停止にしか見えないからである。そもそも「貧」とはどういうレベルを指しているのか?例えば今インフレが問題になっているが、例えば巷で売られている菓子パンの値段が安くて300円になったら、どれだけ生活に影響があるか?などは考えたことがあるのだろうか・・・などどうにも小市民の戯言のようにしか聞こえないというのが私の本音である。まあ大して中身のない情緒的な発想に論理的厳密さを求めても意味はないのだろうが)。

 

そしてこのようにして作られた仕組みやメンタリティは、そうそう簡単に変わるものではなく、まあ数十年(半世紀くらい?)の時間を要するだろう。その間に政治で言えば地方議会レベルをハックするといった局所的な闘い方や成功法はあるだろうが、まあ日本全体としてはどんどん沈没するのは避けようもないだろう。

 

その間様々な領域で底は抜けて被害は拡大していくだろうが、少なくとも今の仕組みを作ったわけではない=責任を求めるのは不適切な若者については、その泥船の中で一緒に沈むことを求めるのは妥当性を欠くため、「日本を出れるようにしておいた方がいい」と常々書いているわけである(もちろん、外の世界に行けばユートピアが存在しているなんて発想は愚の骨頂なので、そんな幻想はとっとと捨てたほうがよいが)。

 

まああるいは、金銭的に余裕があって志もある者は外の世界を目指し、一方で頑迷に変化を拒む者は残り続けるという構図の中、衰退する日本には魅力がなくなって外から来る人も少なくなれば、ある種「蟲毒」のような形でこの社会のひっ迫は加速度的に強まっていくようにも思える。まあそうして出来上がった社会状況は、適切な手を打たなければどういう地獄が惹起するかを世界に反面教師的に示せるという点においては、少しは役に立つのかもしれませんな、と述べつつこの稿を終えたい。


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