織田信長の外交:大名側から見るか、信長側から見るか

2020-12-11 12:15:15 | 歴史系
「海行こ~!」「いいね~!」(→川崎放浪)。
 
「日本のマチュ・ピチュ行こ~!」「ダメだ」「えっ、・・・?」「コロナリスクあるからダメだ」(©ポプテピ)
 
というわけで、目的地を八王子城に変えちょっとした山登りを敢行していたところ、よもや滑落を目の当たりにするとは思わなんだ(まあ言うて20メートルくらい離れてたんだけど)。自分がそれを見たのは本丸を過ぎて富士見台に向かう途中だったが、ストックを装備している人もそれなりの割合はいた事からして、そもそもガチめの「登山」であり、こういう事故は十分起こりうるものだったのだろう(なお、ワイも高川山という所で滑落しかけ、靴とデジカメが犠牲になったんで他人事ではありませんわ)。
 
 
さて、八王子城は豊臣連合軍の攻勢によって陥落したが、今回紹介するのはそれより少し時代を遡った信長存命期のお話である。
 
 
 
 
 
 
 
 
ここで扱われているのは、織田信長と上杉謙信の関係性の変化についてである(ちなみに信玄とのそれはこちらの動画で紹介されている)。
 
 
これについて、信長が「天下人に駆け上った類稀なる天才」というレンズで評価すると、「そんなに才能あるのにこんなミスするはずがない!」という発想になって、そこから「信長=サイコパス」と短絡させるような見方や、あるいは「謙信も後々潰すつもりだったから、そもそも計算づくだった」といった半ば陰謀論めいた解釈になってしまうが、信長が積み重ねた諸々のミスを虚心に見ていくと、まあ普通に「キャパオーバー」だったんではないかと思われる。
 
 
これについて以下私見を述べていくが、先に結論めいたことを書いておくと、信長と同盟を結ぶ側から個々に状況を見ていくと金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』的な評価となり、信長を主軸に据えて様々な関係性が並行していく視点で見ると谷口克弘『織田信長の外交』的な評価になるもと思われる(余談だが、謙信については「義の武将」的な視点が未だ強いように思えるが、そういった評価は藤木久志『雑兵たちの戦場』などを通じてかなりの程度相対化されていることも指摘しておきたい)。まあ外交とはどちらかが絶対的に正しいというものでは基本的になくて駆け引きの世界なので、そういう意味でも二つの視点を意識しつつ読んでいただければと思う。
 
 
さて、信長は尾張という国の守護代から畿内統一まで一挙に駆け上がり、それに伴って扱うべき領域も一挙に広がった。なるほど最初こそ義昭を奉じてだったが、その時点で室町幕府のシステムは(すでに第十三代義輝が暗殺された頃から)崩壊しており、足利将軍の権威こそあったものの、システムの立て直しからやらねばならず、またそれに必要な金も信長側で用意さえしなければならないという状況であった。
 
 
さらに言えば、よく知られているように義昭と信長は後に対立し、義昭の呼びかけで信長包囲網が結成された上、それを打破したらしたで今度は直接信長が朝廷とやり取りすることとなり、グダグダになっていた朝廷関連の慣行を再構築するなどの目的で金銭面や体力面がさらに削られることになったわけである(100年ほど行われていなかった行事もあり、生き証人が誰もいなくてとにかくやり方を確認するところから大仕事、なんてのもあったらしい)。
 
 
このような具合で、あちこちの勢力と同時並行で武力衝突しながら、旧政権や旧権威に配慮しながらシステム作りをせねばならなかった信長(とその家臣団)の苦労は並大抵のものではなかった事は想像に難くないだろう(そら現代的感覚で「ブラック企業」と揶揄もされますわなw)。
 
 
わかりにくいという向きもあるだろうから、こういう喩えでもいいかもしれない。戦国時代は生き馬の目を抜くような、つまり生き残りの時代であったから、それを現在のコロナ禍と考えてもよい。そこで尾張という豊かな国の主であった信長は、言ってみれば(それなりに資本金のある)新興ベンチャー企業の新社長である。さて、彼は「室町幕府」という名の旧財閥のトップを補佐する地位に大抜擢された。
 
 
伝統を重んじる彼としては、そういう名のある財閥の運営に直接関われることはこの上ない名誉と感じていた・・・がしかし、その旧財閥はほとんど名ばかりの存在になっていたのだ。即ち、会社のシステムは機能しておらず、それを再構築するにも人がいないため自分のベンチャーから人間を駆り出し、業務に当たらさねばならない(ただでさえベンチャーで忙しいのに!)。加えて、そこにかかる諸費用は自企業から出さねばならない。そして毎年のように抱える莫大な経費・・・いくら資本金が豊かとはいっても規模感がまるで違う上、慣行がどーのこーのと次から次へとよくわからん金のかかえる行事やら何やらがあって金はもちろん気力も体力も時間もどんどん削られる。
 
 
そしてこんな風に今までとは違う巨大組織とその立て直しに関わりながら、並行して「天下布武」のため周辺の諸勢力と良好な関係を築き、従わない者たちには硬軟織り交ぜたプレッシャーをかけねばならない(義昭にお手紙を出してもらったり、討伐に向ったり・・・という具合に)。その規模感は、尾張という新興ベンチャー企業だけ運営していればよい状態とは全く違うものになっていたことは言うまでもないだろう(そりゃあ「余計なことすんな!」とばかりに謙信と信玄を必死に和睦させたりしたように、少しでも天下とその周辺が静謐になるよう働きかけをしようとしますわな。理想云々以前に、そういう諍いが彼の仕事を増やしかねないわけだし)。また、財閥のトップに近い存在であれば部下へ適切に指示を出せばいいのだろうが、前述のようなシステムの崩壊と人手不足により、当の信長自身が現場に出張らなければならない場面もかなり多かった(戦争はもちろん、朝廷との折衝など諸々)。さて、彼の多忙さはいかばかりであっただろうか・・・
 
 
・・・というわけで、自分で書いておいて何だが、俺だったらそもそもコロナ禍で社長なんてやりたくねーし、その上で巨大組織の立て直しなんて状況はすぐに逃げ出すか過労死してるかのどっちかやなと思う(笑)。しかし信長は自分から義昭の呼びかけに応じたわけで、投げ出さずに業務にあたったのである。とはいえ、今の比較でもあらかたわかると思うが、一つ一つの勢力との関係構築は、一介の戦国武将のそれと比べてどうしても薄くなりがちがだ(それでよい、ということではもちろんないのだが)。
 
 
そのことが、(生き残りをかけて必死な)同盟相手から見ると「信用できないヤツだ」となるし、信長側から見ると「いや俺こんな死ぬほど忙しい中で努力してんだからわかってくれよ!」という具合になるのだろう。ただまあ謙信との盟約と蘭奢待切り取りの件、あるいは信玄と微妙な関係にある中での遠山氏の帰属問題の対応は、完全に地雷を踏み抜いてる感があり、これが多忙な中で目標を達成したことへの自分へのご褒美感覚=気のゆるみなのか、多忙さゆえの配慮不足なのか、はたまた己の立場を過信したがゆえの尊大な振る舞いの結果なのかはにわかには判断しがたい(まあ正直複合的なんじゃないかと思うが)。
 
 
以上を踏まえて繰り返すならば、生き残りを賭けて日々動いていた個々の戦国大名の側から見れば金子拓的な信長評価になるし、殺人的多忙さの中にいた信長の側に立って視野を広く取ると、谷口克広的な信長評価になる(つまりどちらかが絶対に正しいということではない)、という話なのではないだろうか。ただ、現代の国同士の折衝を見てもわかるように外交とはそもそもそのようなものだし、「絶対的な正解」というのは基本的に存在しない(限りなくグレーで、色合いの濃淡は都度都度違う、ということはもちろんあるにしても)。信長の外交というものもそういう風に評価できるし、そういう複雑性に目を向けて諸要素を抽出していくことで、信長の実像や当時のリアルな状況に迫れるのではないかと思う次第である。

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