日本人の「無宗教」、あるいは宗教的帰属意識のあり方について、「アメリカ的物質至上主義」などを取り上げながら考えてきた。その中で最近根拠もなくふと思ったのは、いわゆる日本人の「宗教的寛容さ(ないし適当さ)」がむしろ「無宗教」が支配的という状況の現出に深く関わっているのではないか、ということだ。「宗教的な寛容さ」は、その響きから「外から入ってきた様々な宗教を思い思いに吸収しつつ信仰する」というようなイメージを受ける。少なくとも私はそうだった(これには、日本の「無宗教」がラディカルな唯物論・神否定に基づいているとは考えられない、という根拠がある)。しかし実は、その傾向が「宗教を柔軟に跳ね返す」という全く逆の作用をしているのではないか?
日本人が汎神論的土壌に生きて生きたことはよく知られている。そしてその中では、神が否定されるような状況は少なかったと推測される。その結果、神の(特にラディカルな)否定を好まないという精神的風土が生じたのではないか。しかし現実には、仏教・神道は習合していたので除外できるとしても、基本的に宗教とは他の宗教の神を「邪神」「迷妄」などとして退けるものだ。それゆえに、外来の宗教は日本人の汎神論的精神によってゆるやかに拒絶(ないしは取り込まれ)されてしまったのではないか…そのように思えるのである。
ここでさらに重要なのは、今現在では正式な形としての習合仏教が存在していないという事実だ(言うまでも無く神仏分離の影響)。とすれば、現在の教団仏教もまた厳密には汎神論的風土に合わないことになる。さらには、いわゆる「八百万の神」という信仰を持つ汎神論的宗教(あえてこう言おう)、すなわち神道は当時の政府の都合により合法的に「宗教ニ非ズ」と規定され、それが「空気」として定着してしまった感がある。汎神論的な精神に従おうとすればそれに最も近い神道が信仰の対象としては相応しいことになるが、その神道は宗教ではなくなってしまったのである(言い換えれば、神道を信じていても人々の意識としては宗教を信仰している内に入らない)。
まとめよう。古くから続いてきた汎神論的精神に基づき、汎神論を否定するような、つまり(極端な話)宗教全般が遠ざけられ、さらに汎神論を最も満足させうる神道が「非宗教」と規定されることによって、日本人は「無宗教」が支配的だという状況が生まれたのではないかと思われる。
以上が最近思いついた仮説なのだが、読んでの通り非常に粗いものである。例えば仏教について言うなら、信仰する側は結局習合仏教として捉えるのであって、筆者の指摘は形式的な部分しか考慮していないという批判が出るだろうし、「葬式仏教」になっていた江戸仏教の段階でそれへの帰属意識はすでにかなり低下していたのでは、という意見もあるだろう。またキリスト教の急速な広まりや、明治政府の廃仏毀釈やそれに関連する政策に抵抗して阿弥陀仏以外を拝むのを拒んだいわゆる「浄土真宗篤信地帯」の信仰や反応も上の理論では説明できない。さらには、「宗教アレルギー」が生まれた過程などについても分析する必要があるだろう(これについては近いうち記事を書こうと思っている)。
以上のように問題が山積みだが、それでも「無宗教」が支配的であるという状況を考える上でおもしろい切り口になりうると考えている。日本の「宗教的寛容さ(適当さ)」については多くの著作が言及しながら、それと「無宗教」の関係を考察したものがないことはずっと私の中で疑問だった。もし上で書いた内容がそのような空白を埋める端緒になって「無宗教」の分析が深化していくなら、と思う。
日本人が汎神論的土壌に生きて生きたことはよく知られている。そしてその中では、神が否定されるような状況は少なかったと推測される。その結果、神の(特にラディカルな)否定を好まないという精神的風土が生じたのではないか。しかし現実には、仏教・神道は習合していたので除外できるとしても、基本的に宗教とは他の宗教の神を「邪神」「迷妄」などとして退けるものだ。それゆえに、外来の宗教は日本人の汎神論的精神によってゆるやかに拒絶(ないしは取り込まれ)されてしまったのではないか…そのように思えるのである。
ここでさらに重要なのは、今現在では正式な形としての習合仏教が存在していないという事実だ(言うまでも無く神仏分離の影響)。とすれば、現在の教団仏教もまた厳密には汎神論的風土に合わないことになる。さらには、いわゆる「八百万の神」という信仰を持つ汎神論的宗教(あえてこう言おう)、すなわち神道は当時の政府の都合により合法的に「宗教ニ非ズ」と規定され、それが「空気」として定着してしまった感がある。汎神論的な精神に従おうとすればそれに最も近い神道が信仰の対象としては相応しいことになるが、その神道は宗教ではなくなってしまったのである(言い換えれば、神道を信じていても人々の意識としては宗教を信仰している内に入らない)。
まとめよう。古くから続いてきた汎神論的精神に基づき、汎神論を否定するような、つまり(極端な話)宗教全般が遠ざけられ、さらに汎神論を最も満足させうる神道が「非宗教」と規定されることによって、日本人は「無宗教」が支配的だという状況が生まれたのではないかと思われる。
以上が最近思いついた仮説なのだが、読んでの通り非常に粗いものである。例えば仏教について言うなら、信仰する側は結局習合仏教として捉えるのであって、筆者の指摘は形式的な部分しか考慮していないという批判が出るだろうし、「葬式仏教」になっていた江戸仏教の段階でそれへの帰属意識はすでにかなり低下していたのでは、という意見もあるだろう。またキリスト教の急速な広まりや、明治政府の廃仏毀釈やそれに関連する政策に抵抗して阿弥陀仏以外を拝むのを拒んだいわゆる「浄土真宗篤信地帯」の信仰や反応も上の理論では説明できない。さらには、「宗教アレルギー」が生まれた過程などについても分析する必要があるだろう(これについては近いうち記事を書こうと思っている)。
以上のように問題が山積みだが、それでも「無宗教」が支配的であるという状況を考える上でおもしろい切り口になりうると考えている。日本の「宗教的寛容さ(適当さ)」については多くの著作が言及しながら、それと「無宗教」の関係を考察したものがないことはずっと私の中で疑問だった。もし上で書いた内容がそのような空白を埋める端緒になって「無宗教」の分析が深化していくなら、と思う。
人類史的に見ても、日本民族(あえてこう言います)は、とてもまともな宗教心を持って来た、と理解しています。
こう思うようになったのは、いわゆる悟りの体験をして、いわゆる創造主である神の存在を発見し、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを知り、神にとって人間存在とはいかなる意味を持つ存在であるのが分かってきたことにあります。
詳しくは、書き掛けの次のブログを、お読みいただけると有り難く思います。
いわゆる神の存在証明がもたらす意味について
http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
>宗教心にかけているとは思えません。
一般法則論者さんの言う「宗教心」は所謂「信仰心」、あるいは「迷信深さ」などを指していると考えてよろしいのでしょうか?もしそうなら、あなたの言うとおりでしょう。
>人類史的に見ても~
「まともな宗教心」というのがよくわかりませんが、個人的な話をするなら、例えばアメリカの“religion”を基準にして日本の「宗教」をこき下ろすような見方は無意味だし嫌いですね。
ただ、以上のことは総じて言えば私にとって大して興味はありません。日本人がどれほど宗教的であろうと、「無宗教」という自己認識、宗教的帰属意識が一般的(7割くらい)なのは変わりませんから。そして私にとって興味があるのは、そのような状況がいかにして現出したか、ということにあるのです。
なお、それ以外の部分についてはコメントを控えさせていただきましょう。では、失礼いたします。