負の感情の忌避と共感の問題について

2007-09-18 12:31:46 | 抽象的話題
共感の問題に関連して。


例えば自分の負の感情やマイナスの点について話すと、必ずと言っていいほど「そんなことはないよ」とズレたフォローをされるだけで、負の感情に関する考察には到ったためしがなかった。ところでフォローが必ず入るということは、フォローを求めていると思われているのに他ならない。つまり、「俺はこんなマイナスの感情や経験を持ってますよ。だから慰めて下さいね」と思われているわけだ。抑圧されがちな負の感情を考察しようとしたら、よりにもよって俺の死ぬほど嫌いな自己憐憫に基づいた同情を求めていると考えられていたとは……それ以来、アホらしくなって言うのをやめた(それが大学一年の始めのこと。今思えば、これもまた無関心の一要因だったのだろう)。


なぜこのようなことが起こるのだろうか?「よくわからなければとりあえず無難な対応をしておく」というのは、自分の場合からも類推できる。だとすれば、「よくわからない」状況で話したのが間違っていたと言えるだろう(=問題意識の共有に到る積み重ねが足りなかった)。


その段階までは読めていたのだけど、そういう反応(フォロー)が支配的になるには、まだ何か足りない気がずっとしていた。共感のことを深く考えるようになって、その微細な違和感が埋められた気がした。要するに俺は、相手に共感を求めていると思われていたのだはないか?もしこの見解が正しいとすれば、問題を考えるのではなく、ただ感情を共有できるかどうかだけが基準になる。


こうして人は、ただ自分の感情を押し付けあっているにも拘らず、自分と相手が共感できていると思ったり、あるいは鼻から理解できないと決め付けたりするのではないだろうか?
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