今日、踏切を待っている時に聞こえてきた会話によると、
「老人は地図でよく見えないところがあると、地図そのものではなく自分が回る」そうである。要するに、地図を回転させて見たいところを近くに持ってくればいいのに、なぜか自分がその部分(見たいところ)にわざわざ移動するのがおかしいらしい。もしこれが事実なら確かに奇妙だし、そんな行動をする要因が何なのかも興味深い。
ところで老人といえば、帰省した時に友人から聞いた話では、老人[定義は曖昧なままだったが]は他の年齢層と違う見え方をしているらしい(老眼などとも関係するのか?)。だとすれば、老人の色の好みが違ってくるのは、単に嗜好の問題だけでなくそもそも見えているものが違うから、ということになる。周知のように味の好みなども変化するわけだから、これは単に視覚の問題にとどまらず味覚についても考える必要があるだろう。
なお、視覚の精神への影響を個人的な経験から述べると、例えば眼鏡を着用しているか否かで大きく精神状態は変化する(あるいは一般的な感覚だと、感覚の「オン」―「オフ」と言うのが近いかもしれない)。眼鏡をかけなければ当然世界の輪郭がぼやけるのだが、そうやって曖昧になるのは視覚情報だけではない。例えば道行く美人がいたとしても、それがそういうものとして認識できないのなら無価値である。かように、眼鏡を外すことで世界の意味と価値はぼやけ、減退し、時には無価値にさえなる。人間が外界から得る情報の8割が視覚によるらしいから、この視覚による影響の大きさは至極もっともなものであると言えるだろう。
この見え方の差異は、共感の幻想とも関わる非常に興味深い問題である。折に触れて考えていきたいと思う。
「老人は地図でよく見えないところがあると、地図そのものではなく自分が回る」そうである。要するに、地図を回転させて見たいところを近くに持ってくればいいのに、なぜか自分がその部分(見たいところ)にわざわざ移動するのがおかしいらしい。もしこれが事実なら確かに奇妙だし、そんな行動をする要因が何なのかも興味深い。
ところで老人といえば、帰省した時に友人から聞いた話では、老人[定義は曖昧なままだったが]は他の年齢層と違う見え方をしているらしい(老眼などとも関係するのか?)。だとすれば、老人の色の好みが違ってくるのは、単に嗜好の問題だけでなくそもそも見えているものが違うから、ということになる。周知のように味の好みなども変化するわけだから、これは単に視覚の問題にとどまらず味覚についても考える必要があるだろう。
なお、視覚の精神への影響を個人的な経験から述べると、例えば眼鏡を着用しているか否かで大きく精神状態は変化する(あるいは一般的な感覚だと、感覚の「オン」―「オフ」と言うのが近いかもしれない)。眼鏡をかけなければ当然世界の輪郭がぼやけるのだが、そうやって曖昧になるのは視覚情報だけではない。例えば道行く美人がいたとしても、それがそういうものとして認識できないのなら無価値である。かように、眼鏡を外すことで世界の意味と価値はぼやけ、減退し、時には無価値にさえなる。人間が外界から得る情報の8割が視覚によるらしいから、この視覚による影響の大きさは至極もっともなものであると言えるだろう。
この見え方の差異は、共感の幻想とも関わる非常に興味深い問題である。折に触れて考えていきたいと思う。
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