ウルトラマンが人類を救いたいと思う理由に納得しづらい件

2022-12-14 11:25:25 | レビュー系

 

 

「シン・ウルトラマン」の感想で「肝心の『(ウルトラマンが)なぜ人間に味方するのか?』が弱かった」と述べた点について、少し補足しておきたい。

 

ウルトラマン(以下リピアと表記)が人間を守らねばと思うようになった理由は、自己犠牲(利他)を目の当たりにしたからだという説明がなされている。しかし正直なところ、これには大して説得力を感じなかった。その理由は二つあって、

1.自己犠牲(利他)が超越性に繋がり他者を動かす、というのは非常にありふれたテーマ

2.リピアにとっての「落差」を追体験できる描写がない

に集約される(なお、利他については前に「『「利他」とは何か』:自己責任とリスクヘッジの「孤人主義」を超えるために」という記事を書いたが、今回の内容にダイレクトには影響しないためお暇があればだうぞ)。

 

1については、「デビルマン」「デスノート」など著名な作品にしばしば登場する描写であり、ゆえにそれを「どのように描くか」を工夫しないと凡庸なものにしかならない(ちなみに言うと、両作品ではデビルマンや死神[レム]という非人間の方が自己犠牲の精神を発揮することで超越性というか「人間性」を感じるように描いているのに対し、むしろ人間の方がエゴイズムや独善性を剥き出しでその「非人間性」を強調するという表現方法を採用している)。

 

というわけで2の理由になる。リピアがそこまで衝撃を受けたことを納得するには、そもそも彼が経験し醸成されてきた価値観を描写し、そことの比較対照を行うことが最低限必要だろう。しかし、その部分が全く欠落しているのである(これは致し方ない部分でもあるが、その点は後述)。せいぜいが、地球にやって来る異星人たちの発想に利他という発想はなさそうだ、という部分から自己犠牲(利他)の要素が薄いと論理的に推察することができるくらいだろう(例えば、メフィラスの行動は自己利益を達成するためのwin-win提案で、ゾーフィの行動は公益性のため有害なるものを抹消するという規範の遂行であり、自己犠牲ではない)。

 

以上の理由から、リピアが人間のあり方に感銘を受け、命を賭してまで地球や現生人類を守ろうとした理由に納得するのは難しい。ゆえに、論理や規範で詰めてくるメフィラスやゾーフィに対するリピアの言行は(感想などを見るに半ばネタにもされているようだがw)単にだだをこねているようにすら感じられるほどだ。

 

もちろん、ここで「愛とはある対象を他と『区別する』感情であり、それはしばしば論理を超える」といった抽象的なレベルの話も可能だが、そういった視点の深堀りであったり、あるいはそれを感情的・感覚的に納得させるための演技・佇まいの描写(最近の例で言えば「仮面ライダーBLACK SUN」の信彦の演説や「鎌倉殿の13人」における北条政子の演説)は当然ないので、やはり説得力に欠けるという評価は変わらないのである。

 

とまあここまで批判的に述べたところで、最後に少しフォローをしておく。
ウルトラマンたちが人間の自己犠牲の精神に感銘を受けその人物に自らの力を託す、という描写は「ウルトラセブン」や「帰ってきたウルトラマン」でも見られ、その意味ではある種「様式美」のようなものと理解することもできる。本作に見られる様々な旧作オマージュや、樋口監督が演出上旧作ウルトラマンの手触りをあえて残そうとしたところから考えても、そういう流れの中に位置づけることは可能だろう。

 

またそもそも、約100分という枠の中で、旧作の一部エピソードを繋げ、象徴を随所に織り交ぜながらテンポよく話を進めていく(若干ツギハギ感はあるけど)という構成を考える時、ウルトラマンが自己犠牲に衝撃を受ける背景=ウルトラマンが過ごしてきた状況を描く余裕は尺的にも演出的にもなさそうなので(そも説明的すぎるし、説明を入れても説得力が増すとは限らない)、まあここをばっさり切り捨てて「ウルトラマンてこういうものですよね?」という様式美の中で、ザラドやメフィラスなど他の存在の行動原理から現生人類の自己犠牲の珍しさを匂わせるぐらいにとどめたのは賢明だとも思う(最初から描かないと割り切っていたのかなどは不明。一応「人間=おしなべて利他性に溢れた存在」だなんて言いたいわけじゃないよ、って描写も随所に出てくるので、バランスは相当意識はしてたんだろうなと思う)。

 

その意味では、リピアが自己犠牲(利他)に衝撃を受け自身もその行動原理を身に着ける様子が説得力に乏しいため、見る者の価値観を大きく揺るがす作品にはなっていないが、神永=人間の自己犠牲(利他)=超越性がリピアを動かし、そのリピアの自己犠牲(利他)=超越性がゾーフィという規範の象徴のような存在すら変えた、という軸で物語を大きく駆動させたのは巧みだったと言えるかもしれない。

 

ゾーフィのデザインは「ウルトラマン神変」という作品から採っているので、例えば『失楽園』に登場する神・天使の側に位置する非人間的レベルの道徳性の化身とみなすことができ、一人の人間の利他的行為が最終的に神をも動かした、と理解することも可能(それをどう評価するかは別の話だが)だと述べつつ、この稿を終えたい。


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